そこはモノクロの世界だった。
灰色のもやがかかったような世界に自分が誰かと向かい合っている。
「ごめん」
卓巳は向かい合う人に、そう謝っていた。相手は黒い陰だけで誰だかは分からない。
何も反応しないその人に向かって、
「誰かのものになってしまうのは嫌だったんだ」
今度は、叫んでいた。
黒い影はゆっくりと頭を振ると、霧のように薄くなり、それは細い束になると上から降り注いできて体に吸い込まれていった。
誰? 何?
自分を見ている自分が問いかけていた。
けれど、すぐに卓巳はその答えを自分の中に見つけた。遠い昔の自分だと頭の中に語りかけてくる声がある。
幸せになれないと分かっているのに、同じ過ちを繰り返すのか?
遠い自分が非難するように言う。
幸せになれない?
誰がそんなことを決めるんだ、と思う。
お前は――――。声は途中で途切れた。


「……み、卓巳っ」
体を揺すぶられて卓巳ははっと我に返った。
「もう、飯食ってる時間はないぞ」
ニ三度、また揺すられて意識が戻ってくる。卓巳はぼんやりと周りを見回した。
今見てたのは夢だよな、と思う。
雅也が心配そうな顔をして覗きこんできた。
「大丈夫か?」
「ん? ん」
ここは、自分の部屋じゃないことは分かった。
そういえば、と思う。夜中、自分から雅也の部屋に来た。
「じゃあ、早く着替えないと時間ないぞ」
唇にちゅっと触れてくる。
「ん」
一応頷いた。
着替え、そう思って自分が裸であることに気がついた。下着も何も一切身につけていない。
雅也はズボンの中にシャツを入れ込むと、部屋を出て行った。
昨日夜。そう思っただけで卓巳は体が熱くなってきた。ゆっくり体を起こすと体に掛けられていたケットがはたっと落ちて、露になった肌のところどころに赤く 痣のよう なものがある。この痣をつけたのは雅也だった。
その痣に触れるとその時の感触が蘇えってくる。
雅也の熱い唇と息を肌は感じていた。
卓巳が熱を収めるようにゆっくりと息を吐き出すと、ドアが不意に開いて雅也が入ってきた。
雅也は一瞬驚いたように立ち止まって、けれど、すぐに卓巳に近づいてくると、下着とシャツと制服のズボンを放ってきた。
「お前も早く着替えて来いよ」
優しい目で見てくる。
「あ、うん」
卓巳は放られたアンダーシャツに手を通した。
起きたくはなかった。まだまどろみの中にいたかった。けれど、現実は思い通りにはなってくれない。
「学校、行けるか?」
雅也が心配そうに聞いてくる。
「ん。大丈夫だよ」
笑いかけようとしたのに、卓巳は少しぎこちなくなった。
「休むか? 熱があるみたいだって言ってこようか?」
雅也がベッドの縁に座る。
「大丈夫だよ。すぐ行くから先に行って」
卓巳は手で雅也の背中を押した。
「すぐ、来いよ」
雅也が念をおすように言う。
「うん」
答えながら卓巳はシャツに手を通した。
ベッドの脇で立ち尽くす雅也に早くと仕草で示すと、不安そうな顔をしながらも雅也は部屋を出ていく。
雅也に心配をかけちゃいけないと思う。休むと言ったら、自分まで休むと言いそうだ。自惚れているかなとも思うけれど、まるっきりハズレではないと思う。
目覚ましは鳴ったのか全然気がつかなかった。時計はいつもなら雅也が家を出る時間を指している。
夢の続きが気になった。
お前は――――その続きはなんだったのだろう。
ベッドの端に座って、ズボンに足を入れた。ベルトを締めると、ベッドに突っ伏してシーツに手を這わせた。
――――繰り返さないと誓えるのか?
誰とも分からぬ声が頭の中で響いた。

「卓巳」
声と共にドアが開き、雅也がトレーを手に部屋に入ってきた。
「一口でも食え」
トーストにスクランブルエッグと野菜が挟まれたものを口元へ持ってくる。
「雅也は行く時間だろ?」
差し出されたものを口にはせず、卓巳は雅也を見上げた。
「一緒に行くよ。だから、ほら」
食えと差し出してくる。
「うん」
卓巳は差し出されたものを手に取って一口かじった。
お腹が空いているとは思わなかった。けれど、そう言って許してくれる雅也じゃない。
けれど、のんびり食べている場合でもなかった。雅也は一緒に行くと言った。
「下へ行きながら食うよ」
卓巳は雅也からトレーを取り上げた。一緒に持ってきてくれた牛乳を一口飲み、そして、立ち上がって部屋を出た。せめて、顔ぐらいは洗わないといけないだろ うと思う。
途中でダイニングテーブルにトレーを置くと、テレビを見ていた母が振り向いた。
「二人揃って寝坊なんて」
呆れた顔をする。
自主性に任せるというのか、暢気というのか、時間だと起こしにこない母親に助かったと思った。あの状態を見られたら、マズイだろうとは思う。
ベッドの脇に服を脱ぎ散らかし、ケットをかけていたとはいえ体を絡ませていた。
「ん」
適当に相槌を打つと、卓巳は洗面所へ行った。
適当に歯を磨き顔を洗って、上に鞄を取りに行こうと思っていたら、玄関で二つ鞄を持った雅也が待っていた。
「行くぞ」
「あ、うん」
久しぶりだなと思う。
卓巳が鞄を受け取って、二人揃って玄関を出る。
雅也に対して素直な気持ちを持てるのも久しぶりだと思った。
「大丈夫か?」
雅也が心配そうな顔をするから「大丈夫だよ」と卓巳は笑った。
体はそんなに辛くない。あくまでも、そんなにだけれど。
満たされた後の体はぽっかりと何かを失ってしまったようにだるく感じた。
体育がなくて助かったと思う。着替えからしてやばそうだ。
「雅也」
声をかけると、
「ん?」
雅也が怪訝そうな顔を向けてくる。
今幸せ? と訊こうとして卓巳はやめた。
「何?」
卓巳が何も返さなかったことに、雅也は不安そうな顔を見せる。
そんな不安そうな顔させちゃいけないと思った。
ちゃんと自立して心配もさせちゃいけないと思う。
「大学は同じところ目指すよ」
今から間にあうのかは不安もあるけれど、やらなきゃいけないと思う。
「雅也の第一希望のところだからね」
一応、釘を指した。高校受験の時のように合わせると言いかねない。
雅也は複雑な顔をしながら無言で卓巳の頭をくしゃっと撫でた。
幸せではなかった遠い過去と同じにはならない。幸せはこれから二人で作っていくものだと思う。

梅雨が明けた空は、雲ひとつなくどこまでも青かった。


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