雅也の帰りは今日も遅かった。
夕食の後、卓巳が自分の部屋に戻った後で玄関のドアが開く音がした。それは雅也だと卓巳にはドアの音で分かった。
いつもとは違う気持ちで卓巳はその音を聞いていた。胸が潰れるような痛みを感じる。
足音が部屋の前を通り過ぎ、部屋のドアが開く音がする。
胸の痛さは増していき、息をすることすら辛かった。
はあ。
ため息が零れる。
何度目かわからない寝返りをうち、卓巳は寝たいと思うのに寝入ることができないでいた。
このごろよくは寝られなかった。重く沈んだ気持ちはせっかく寝入ることができてもふとした拍子に目が覚めてしまった。
今日は違う、抑えきれない気持ちを持て余していた。胸が痛くて苦しい。その原因も正体も分かっていた。
深く息を吐くと、卓巳は起き上がった。
静かに自分の部屋を出て、雅也の部屋の前で立ち止まった。
どうするつもり?
自分に問いかけてみる。
どうしよう。どうしたらいいのか分からない。
けれど、胸の奥から溢れ出すものが止まらなくて持て余している。
そっとノブを回すと、かちゃっと小さな音がする。そっとドアを押すとその先にベッドがあって、雅也が横になっているのが分かった。胸がとくんと跳ねて悲し
くさえなってくる。
そっと近づくと、ベッドの脇に膝をついて、上に腕をそっと置いた。
寝ているところを起こす気はなかった。壁に向いていて自分から見えるのは後ろ姿で、でも、それでも良かった。傍にいるとそれだけで安らぐ。触れたいけれ
ど、きっと起こしてしまうからとそれは我慢した。
「卓巳?」
背を向けたまま、雅也が言う。
「ん」
起こしてしまったのかな、と卓巳は思った。
「何?」
優しさはいつも変わらない。
「ううん。何でもない」
ただ、傍にいたかっただけだった。
「何でもないなら部屋へ戻れよ……もう夜も遅いんだから」
「ん」
雅也の言う通りだと思う。
でも、戻る気にはなれなかった。
少しの間、ベッドに置いた腕を枕して頭を乗せていた。
「卓巳?」
雅也が上半身を起こす。つられるように卓巳も顔をあげた。
明りがついていない部屋はカーテンの隙間から漏れる明りしかなくて、黒い影しか見えない。
「ごめん、起こしちゃって。もう少しだけ……」
傍にいたいと思うのは雅也だけだった。
「何か、あったのか?」
心配してくれるもの以前と変わらない。
答える代わりに卓巳は頭を振った。
好きなのかな、と思う。
けれど、自分の感情は肉親としてなのか一人の人間としてなのかはっきりしない。
「卓巳」
雅也が小さく息を吐く。
「俺はそんなにできた人間じゃないから、自分の欲望を抑えることなんてできないよ。分かってるだろ、お前。こんな時間に俺んとこきてどうされたいの? 嫌
なんだろ? だったら、自分の部屋へ戻ってくれよ」
ゆっくりと雅也が言葉にする。その言葉に卓巳は胸が熱くなった。
「嫌……なわけじゃない」
声が掠れる。嫌なわけじゃない。あの時も嫌だったわけじゃない。兄弟としてあってはいけないことだと思ったからだ。
「嫌だって、言っただろ?」
雅也が怪訝そうな声を出す。
「びっくりしたんだ。考えてもなかったことだったし、こんなことしていいわけないと思った。だって、僕達兄弟だよ」
「だから?」
雅也の手が頭に触れた。久しぶりだった。温かいぬくもりがそこにあった。
「雅也のことは好きだけど、それは肉親としての感情だと思ってた」
思いがそのまま声になる。自分でも驚くほど素直に言葉にしていた。
「違った、のか?」
「分からない」
雅也が兄であることは変えられない事実で、まったく他人の一人の人間としては見れない。
「なら、同じことだろ?」
雅也の手がすっと離れていく。それが酷く悲しく感じた。
「でも、嫌だ。雅也を他の誰かに取られてしまうのは、絶対嫌だ」
卓巳は雅也が自分の傍から居なくなるということを始めて実感した時、全てがどうなってもいいとさえ思えた。
「……お前はお前で、沙紀と、うまくいったんだろ?」
卓巳は強く頭を振った。
「会った日に断わった。今は誰かと付き合う気になんてなれないって言って」
「そんな風には、見えなかったよ」
雅也が訝しげに言う。
「雅也が、そう望んでいるのかなって。散々反発してきたけど、一回ぐらい雅也が望むことをしてもいいかなって。あの時、僕はもう雅也が他の誰かと一緒にい
るところなんて見ていたくなかった」
あの時、雅也は一人じゃなかった。傍に寄り添う人がいた。
「信じていいのか?」
雅也の手が頬に触れる。
「雅也」
卓巳は立ち上がると雅也に抱きついた。勢いそのままに卓巳は雅也をベッドに押し倒していた。ベッドのスプリングが二度三度跳ねて体を強く揺らした。それは
次第に弱くなってまるで揺りかごのように優しくなって受け止めてくれる。
「後で、冗談だとか、からかったんだとか言っても受け付けないぞ」
雅也の腕が背中へ回される。
「うん」
卓巳はこの腕の中を誰にも譲りたくないと思った。