「卓巳、昨日は遅かったわね。何時に帰ってきたの?」
朝、食卓についた卓巳に最初にかけられた言葉は不満げな母の文句だった。
「あれから、すぐだよ」
まるで、助け舟を出すように先に席についていた雅也が声を出す。
あれからと言っても卓巳には『あれ』が分からない。
「ごめん。電車すっごい混んでて、なかなか乗れなくて」
卓巳は雅也の目を避けるように答えた。
確かに人は多かった。けれど、雅也は自分より早く帰っている。なによりも、雅也はどれくらいの人がいて、どれくらいの混雑だったのかを知っている。
「はぐれたってぐらいなんだから、人は多かったんだろうけど、なら、一言くらい電話してきても良かったんじゃないの?」
――――え?
はぐれた?
そういうことになっていたのかと卓巳は思った。
一緒に出ていったのだから帰りが別になれば、おかしいと言われればおかしいだろう。
「じゃあ、俺行くから」
雅也が突然席を立った。
いつもよりだいぶ早い時間だった。始業時間は雅也の方が早く、時間に余裕を持ちたいという雅也は卓巳より出ていく時間が早い。
けれど、朝の五分十分は結構な時間であるのに、いつもより三十分近く早いんじゃないかと思う。
卓巳の顔を見てすぐ立った、そんな印象だった。
「え、ずいぶん早いのね」
母が驚いたように言う。
「まあね」
雅也は軽く返し、そのまま居間を出ていった。
ちょと待てよ、と卓巳は思った。
いつも煩くさえ感じる言葉が一つもなかった。
「はい」
母がトーストされたパンがのった皿をよこす。
「あ、うん」
皿を受けとりながら、卓巳は雅也が行った方へ視線を向けた。
昨日の夜も、一言だけ言って自分の部屋へ行ってしまった。
あの後、お小言のひとつやふたつはあっても良かったんじゃないかと今更にして思った。夜も遅かったからと言えば昨日のことは納得できたとしても、朝、何も
言わずに行ってしまったことは今までない。
寝過ごしそうになった時は部屋まで起こしにきたし、始業時間が遅くて寝ていた時も、わざわざ部屋まで来て一言言って行った。
傘忘れるなよとか、忘れものないかとか、財布は持ってるのかとか。
煩がって反抗的な返事をした次の日も、無視をした次の日も、まるで習慣、それ以上にそれがないと一日が始まらないかのように繰り返されてきたことだった。
そんなこと言われなくても分かっているよと思っていた言葉が無くなると、それはそれで急に不安になった。
自分を包んでいたものが突然消えて、暗闇の中へぽんと放り出されたようだった。
その日からまるで掌を返したように雅也の卓巳に対する干渉がなくなった。
朝、顔を見ればいい方で、卓巳が起きて居間に下りていったときには既に家を出ていることもある。帰りも遅くて夕食時間の後に帰ってくるようになった。
「雅也、学校で何かあるの?」
数日続いた時に卓巳は母に訊いた。
母親なら何か聞いているかもしれない、と思った。
「さあ?」
母は暢気な顔で答えてくる。
「朝、早すぎない?」
帰りが遅い理由はなんとなく分かる。朝も?
「いいじゃない、早い分には。あんたはもう少し早く行った方がいいじゃないの?」
卓巳の気がかりをよそに母親は反撃してくる。
「十分、まにあってるよ」
危ないときはあっても遅刻はない。
「一緒に出て行ってくれると、楽なんだけど」
母はぼやくように言った。
高校入学当時、確かに雅也はそのつもりだった。一方的に卓巳に合わせる時間で、ニ、三日は家を出るときは一緒だった。それは、出るときだけで、卓巳が隣の
犬をかまったり、のら猫と追いかけっこしたりと好き放題していたら、そのうち雅也が諦めたようだった。
雅也の方が始まる時間は早い。付き合いきれなくなったというのが実情だろうと思う。
そうなるようにしたのだから、それは喜ぶべきことで。けれど、しばらく、雅也の姿が目に入らないことが落ち着かなかった。
その時と同じだよ、と卓巳は思った。
煩いと思っていた言葉だった。無くなって清々しているはずだ。
ただ、いつもと違うから落ち着かない。けれど、時間とともに慣れるものだ。あの時もそうだった。
明日から別々に家を出ようと言われて、それをそのまま雅也は実行しただけなのに、置いて行かれてしまったことに卓巳はびっくりした。雅也が自分をおいてい
くわけはないと心のどこかで思っていた。
学校も違う。友達も違う。
もう干渉しあう歳でもない。
これで良かったんだよ――――卓巳は心の中で呟いた。