水族館の水槽の中では、魚達が優雅に泳いでいた。
「すげえ」
前にいた小さな子供が声をあげる。
日曜日だからだろう、人はそれなりにいた。この水槽の前にも隙間がないほど人が並んでいて、ところどころニ列になっている。
ひときわ大きなマンボウが小さな魚達を引率するように見える水槽の中は平和で規律が保たれているように思えた。
実際の海は違うのだろう。お互いを食い合って生きているはずだ。
自由な海とは違う、広さを我慢する代わりに争いがない。
耳元で沙紀に何か言われた。
「あ、うん」
何を言われたのか分からなかったけれど、卓巳は聞き返す気にはなれなかった。そのまま沙紀は離れて行ったから、どこかへ行くということだったのだろうと思
う。待っていればそのうち帰ってくると思った。
卓巳達は雅也達と水族館の入り口で別れた。
そんなことになるとは聞いてないと文句を言うのも大人げないと思い、卓巳は従った。
待ち合わせの場所と時間を決めて昼は一緒に食べようと言う。後を付いていくこともできたけれど、そんな気にもなれなかった。そのくせ、気になって仕方な
い。
今ごろ手でも繋いでいるんだろうかなんて思うと、むしゃくしゃしてくる。話をしながら笑いあっているのかと思うと面白くない。肩なんか抱いていたら蹴飛ば
したくなる、絶対に。
ふと聞き覚えのある声が卓巳に耳に入ってきた。
「心ここにあらずって感じね」
それは一言聞いただけで耳についた忘れもしない由果の声だ。
卓巳は思わず人影に隠れた。別れたとは言え限りあるスペースの中にいるのだから、会う可能性がないわけじゃなかった。
ちらっと声のした方をみると、手も繋いでいなければ笑ってもいなくて肩も抱いていないことにとりあえずほっとした。
「そんなに心配?」
耳をそばだてて聞いてしまう。
雅也と由果はそれほど離れていない通路の中央に置かれた小さな魚だけが入っている水槽の前に立っていた。
「……あいつ、男子校だし女の子と付き合ったこともないから」
雅也が呟くように言う。
がやがやとした声や物音の中、やっと聞きかじることができる程度の声だった。
余計なお世話だと卓巳は思った。それじゃまるでこっちもデートみたいだ。誰も紹介してくれなんて言ってない。今日は雅也の彼女のお披露目のはずだ。
人数合わせ。そんなことしか考えていなかったけれど、あいつは紹介したつもりだったのかもしれない、とふと思った。
雰囲気は笹井に似ていた。
それは、雅也の故意なのかもしれない。
「でも、沙紀も気に入っていたみたいだし。そんなに心配することないと思うよ」
「なら、いいんだけど――――」
――――よくねえよ
卓巳は心の中で雅也に返した。
もしかしたら、と思う。
自分だけが彼女を作った引け目とか、予想もしていなかった文句を言われて、彼女ができればうるさいことを言わないんじゃないかと思ったのかもしれない。
あの時、雅也が部屋に入ってきた時、身構えていた自分がいた。
あっさりと言いたいことだけ言って部屋を出ていった雅也に物足りなさも感じた。
振られたのだから、と雅也は言っていた。
雅也にとっては、もう、自分のことは過去になっているのかもしれない。
卓巳の引っ掻き回された心の中はまだ引きずっていて、さっさと自分だけ立ち直ってずるいと思う。
それがあるべき姿だとは思うけれど、納得できない。
「沙紀」
突然由果の声が飛び込んできた。
「どうしたの? 卓巳くんは?」
「あそこにいるよ」
暢気な声が返ってくる。
卓巳がこわごわゆっくり振り向くと、雅也とばっちり目があってしまった。
「どうしたの、これ?」
由果が沙紀の手にしているものを持ち上げる。
大きなビニール袋からは尻尾のようなものがでていた。
「さっき、目に入って気になってたんだよ。かわいいでしょ」
沙紀は袋から大きなイルカのぬいぐるみを取り出した。
会ってしまったのにまた別れるというのも変だと思ったのか、誰も何も言わないまま四人で水槽を眺めていた。
卓巳は雅也との間に微妙な空気を感じていた。
不思議なもので、四人になると由果は沙紀と並んでいるし卓巳の隣には雅也がいた。
昔、いつかの夏休み、家族で水族館に来たことがある。あの時は雅也の手を引いて、走り回っていたような気がした。
今はすぐそこにある手に触れることさえできない。
目は水槽で泳ぐ魚を映しているのに、意識は雅也の方へばかりいっていた。
一通り見た後、混む前に少し早い昼食にしようということになり水族館を出た。
水上に浮かぶイタリアンレストランとかバイキングとか中華だ焼肉だすしだと店が並ぶ中、学生の財布なんてものは限られていて、結局フードコートに入った。
席を取り、パスタにするという由果と沙紀を先に行かせて、雅也と二人で椅子に腰を下ろした。
「お前、何にする?」
雅也が壁に沿うように並んでいる店を見回しながら言う。
「ハンバーガー」
卓巳はぶっきらぼうに答えた。
それは、卓巳の真正面にあった。
別に何でも良かった。ただ、確かに腹も減ってきていたから何か食べとかないと後が辛いだろう。それだけのことだ。
「そっか、じゃあ、俺もそうしよう」
雅也がバーガーショップへ視線を向ける。
きっと、同じものを選んでくれるはずだという気持ちが卓巳はあった。いや、そうしろよ、と思っていた。雅也が付いてきてくれると思っているから好きなこと
が言える。
物心ついた頃からずっとそうだった。
雅也はいつも自分の隣にいるはずのやつだった。
「おまたせ」
良い匂いをさせて湯気のたつパスタをのせたトレーをもって、由果と沙紀が帰ってくる。
二人に「ああ」と返事をして「行くか」と雅也が声をかけてくる。
今は――――今はまだ雅也は自分を見ていてくれる。
けれど。
にこにこしながら椅子に座ったやつが雅也を自分から奪っていくかもしれないと卓巳は思った。