「ばか……」
断続的な音が鳴る受話器に向かって卓巳は呟いた。
訊きたいことは何も答えてくれなくて、自分の言いたいことだけを言って雅也は電話を切った。
それは、絶対に故意だ。
切れてしまう電話を卓巳にはどうすることもできなかった。
「何が、できるよ、だよ」
――――なら、あんなことしなきゃいいのに
卓巳はダイニングテーブルの上に視線を向けた。
お金は置いてあるし、コンビニには走れば五分で行ける。腹が減ったら好きにすればと思ってくれればいいのに、絶対そんなことは思ってない。
そうやっていつも、雅也はいつも心の中をかき乱していく。
「余計食べられなくなっただろ」
受話器に向かって言っても、受話器が返すのは規則正しい機械音だけだった。受話器を持っていたところで、もうラインが繋がることがない。
卓巳は小さくため息を零すと、受話器を置いて、居間に戻りソファで体を丸めた。
「お腹すいた……」
独り言ちる。
意地になっていた。
帰ってきてくれって言ったのに、何も返してくれなかった雅也に帰ってきたら文句を言いたかった。
できないって言っただろ――――そう雅也に言ってやりたかった。
いつの間にか寝ていたようだった。意識がぼうっとしていて、背後からかたんと小さな音が聞こえた。振り向くと、雅也が立っていた。
「あ……」
卓巳はソファを乗り越えて、雅也にしがみついていた。
夢見てるのかな、と思った。でも、夢でも何でも、掴まえておきたかった。
「卓巳? 」
「いやだ、一人にしちゃ……」
しがみついた体から雅也の匂いがした。それだけで、今まで抱えていた不安な気持ちが消えていった。
手が頭を撫でる。
「ごめん」
頬を寄せてくる。
感じる感触に、現実だと思った。
「雅也っ」
帰ってきてくれて良かったと、卓巳は思った。
はっと思って卓巳が起き上がると、そこは居間のソファだった。
――――あれ?
夢だったのかと思う。
雅也が帰ってきたと思ったのに、自分は一人でソファに寝ていたらしい。
「雅也のばか……」
つい声になって出た。
夢にでてくるほど居て欲しいときに限って居ない。
「起きたのか? 」
背後から声が聞こえて、振り返ると雅也がいた。
「あ……」
「お前がハンバーグ食いたいっていうから帰ってきたのに、ばかはないんじゃないのか? 」
ダイニングテーブルに頬杖をつき、雅也は不満そうな顔をしていた。
自分を襲ってきたのは本当に同じやつなのかと思うほど、雅也はいつもと変わらなかった。
「食べてないんだな」
視線を出前の丼へ向ける。
「雅也が勝手にどっかへ行っちゃうからだろ」
呆れるほど過保護にしといて、突然放り出すからだ。
「……その方がお前も安心だろ? 」
雅也が視線を伏せた。
「勝手に決めるなよ」
雅也がいなくなるなんてことは、頭にはなかった。いつでも、なんで居るんだよと思うときにも傍にいてくれるのが雅也だった。
「じゃあ、お前、あのまま俺に抱かれたかったのか? 」
問い掛けは直球だった。
「それは……――――」
いいわけがない。けれど、卓巳は雅也を目に前にして嫌だとはっきり言えなかった。
「俺は――――ずっとお前を見守っていくつもりだった。お前が幸せならいいと思った。お前の幸せだけ考えていたつもりだった。だけど、それはいつの間にか
歯車が食い違ってしまって、今は俺がやること全てお前を不幸にしてしまうみたいだ」
雅也が小さくため息をつく。
「あんなことをするつもりじゃなかったんだ。ごめん、卓巳。だけど、もう俺も限界……」
顔をあげ、宙を見上げる。
空気が切なさを伝えてくるようで、卓巳は胸が痛くなった。
いつも自分は守ってもらうばかりだった。
何も返したことはない。したとすれば、汚い言葉を投げかけただけだ。
「僕は……雅也にそれほど思ってもらうほどのことしてないよ」
兄だからと、疑問に思わなかった頃もあった。
「居てくれるだけでいい存在……俺にとってお前はそうだよ。何も望んでない――――そう言ってしまいたいけど、それは違うみたいだな」
雅也が卓巳を見て目を細めた。卓巳の胸がとくんと疼いた。
「全部否定されちゃうのは、やっぱ辛かったかな」
雅也が小さく笑う。
ごめん、卓巳はそう言いいたかったのに、口よりも先にお腹の方が反応した。
くぅと切なそうに鳴ったお腹に手をあてて、そう言えば、昼何も食べていなかったことを卓巳は思い出した。
微妙な空気が流れて、雅也がくっと笑った。
「何も食べてないのか? 」
笑いながら言う。
「食べられるかよ」
卓巳は口を尖らせた。
構うなよと思うくせに、居なきゃ居ないで落ち着かない。恋愛感情だとは思わないけれど、ある意味、自分にとって雅也は居てくれるだけでいい存在なのかもし
れないと思った。
「どっちにする? あっためてやるよ」
自分じゃ絶対そんな面倒なことはしない。雅也にいつもおぶさっている。
「半分づつ、一緒に食おうよ」
どっちかなんて選べない。どっちも好物なのを雅也は知ってるはずだ。
「そうだな」
雅也が立ち上がった。
「もしかして、雅也も昼食べてない? 」
ふと思った疑問だった。
「なんとなく」
雅也が丼にラップをかけながら答える。
はっきり答えることを嫌がったのは、当たりだと思った。
生まれたときから当たり前のように居て、当たり前のように守ってくれて、喧嘩なんかしたことはない。
「ねえ」
「ん? 」
すぐに返事を返してくれる。
「雅也の気持ちとは違うけど……僕にとって雅也は居てくれるだけでいい存在だよ」
気持ちには応えられないけれど、大切な存在であることは確かだ。
雅也は真剣な顔で卓巳を見て、それから少し口元を緩めた。
「ありがとう、卓巳」
笑顔を見せて、温めるために丼をレンジの中へ入れる。
雅也を見ながら自分の気持ちがずいぶん変わっていることを卓巳は感じた。
今までどうしてあんなに反抗したかったのかが分からなくなっていた。
――――もう、どこにも行くなよ
雅也の背中に向かって、卓巳は心の中で呟いた。