暗いクローゼットの中で、卓巳はゆっくりと息を吐いた。体の疼きを伴う熱を少しでも下げたかった。雅也に引きずり出されたら、きっと、そのまま雅也の手に
落ちてしまう。今だって、やっと抑えている状態だ。
「卓巳? 」
部屋のドアが開く音がして、ほどなく雅也の声が聞こえてきた。
「卓巳? 」
声が宙を飛ぶ。
卓巳は見つからないことを祈った。雅也がいなかった隙に外へでも逃げ出したと思って欲しかった。
「卓巳? いるんだろ? 」
声に確信が見えて、雅也には全てが見えているのじゃないかと思う。だからといって、おいそれと出ていくことはできない。それでは、全てを認めて許したこと
になってしまう。
「それが、お前の答え? 」
雅也の声は自分に向かっているような気がした。前の扉を透かすように雅也に見られているような気がする。
卓巳は息を殺すことしかできなかった。
重たい沈黙がしばらく続いた。
「分かったよ」
雅也が吹りきるように言う。
「悪いけど、俺自分を抑える自信がないんだ。だから、卓巳、一人で留守番して? 」
――――え?
何かを聞き間違えた? と思った。卓巳は雅也が自分を置いてどこかへ行くなんてことは考えられなかった。
「鍵ちゃんとかけて、火の元はちゃんと確認して寝ろよ。母さんから預かってる金はダイニングテーブルの上に置いておくから」
まるで用意されたドラマの台詞のように、雅也は滑らかに口にする。
続けられた言葉はさっきの言葉を補うものだった。
雅也はどうするつもりなんだろう、と思った。まだ昼前のはずだ。親が帰ってくる明日の夕方まで、どこへ行くつもりなのか。
「卓巳……ごめん」
謝罪の言葉の後しばらくしてドアの音がして、気配が沈黙に変わった。
卓巳は動けなかった。
胸が痛くて重くて、押しつぶされそうになっていた。
息することさえ辛くて、暗いクローゼットの中で体を丸めていることしかできなかった。
全て、雅也が書いたシナリオだと思った。
本当に抱くつもりだったら、体を自由にしたまま、部屋を出ていくわけがない。卓巳に最後に選択のチャンスを与えてくれた。
そして、拒むことをきっと予想していた。
まるで用意されたような言葉が、それを確信だと思わせる。
何もかもが突然すぎて、卓巳の頭の中は混乱していた。
肉親への愛情だと思っていたものが、違うと見せ付けられて、雅也の熱を確かに感じた。雅也に触れられて、自分も熱くなっていた。
こんなことが起こるなんてことは予想していなかったし、雅也の気持ちも考えたことが無かった。
暗いクローゼットの中で時間だけが過ぎていく。
雅也は両親が帰ってくるまで、帰ってこないつもりだと思う。けれど、その後は?
雅也の顔をちゃんと見られるのだろうか。話すことができるのだろうか。
雅也はきっと何もなかったようにやってのけるのだろう。
卓巳には自信がなかった。
抱えていた誤解は解けた。
けれど、待っていたのはもっと大きなもので、抱えきれずにいるのに、一人で放りだされてしまった。
「雅也、ずるいよ」
愚痴が零れる。
自分だけ言いたいことを言って逃げてしまった。
「僕は、どうすればいい? 」
そんな問いかけができるやつはいない。空(くう)に言葉をかけても答えてはくれない。
何もする気になれず、そのまま体を丸めていたら、インターホンの音が聞こえた。
――――誰だろう
誰が尋ねてきたとしても自分では用たたずだ。居留守でも構わないだろう。そう思ったのに、催促のようにすぐまたインターホンが鳴る。
宅急便とか郵便局の類かと、卓巳は重い体を起こした。出てももういないかもしれないと思ったけれど、腕に抱えていたものを身に付けていると、またインター
ホンが鳴った。
許してはくれないらしい。
階段を下りていくと、もう一回鳴った。
ずいぶん、しつこいなと思ってドアを開けると、ドアの外で待っていたやつは、大きな盆を持っていた。
「ああ、よかった」
ほっとしたような顔をする。
「じゃあ、御代は受け取ってますんで」
大きな盆を卓巳に押し付けてきた。
「僕、頼んでませんけど」
もう昼なのかな、と思った。そういえばお腹もすいてきたかもと思う。
「神谷さんでしょ」
「ええ、そうですけど」
この周りに、神谷は一軒だけだ。
「こっちは、届けてくれって言われただけなんで、御代ももらってますから」
相手は引いてくれそうにはなかった。
「そうですか」
仕方なく、卓巳は引き下がった。こんなことをしそうなやつに心当たりはあった。
「じゃあ、後で器は取りに来ますから外に出しておいてください」
「あ、はい」
お盆を受けとりながら卓巳は答えた。
用は済ませたとばかりに、そば屋の出前もちはさっさと門を出ていく。
お盆に並んだ丼が二つ、いい匂いをさせていた。
これ、全部食えって言うのか? 雅也は親が帰ってくるまで帰ってこないようなことを言っていたのに、帰ってくるつもり?
――――ああ、そうか
答えはすぐ分かった。
出前は二人分からしか配達してくれないから。それに、昼と夜に食べてもいいと思ったかもしれない。
卓巳は家の中へ入って、ダイニングテーブルの上にお盆を置いて、中を覗いた。かつ丼とカレー丼なのは匂いで分かっていた。
「一人で留守番しろって言ったのに……」
結局、雅也は心配なんだろう。
いつだって、幼稚園児並の扱いしかしてくれなかった。
仲が良かったころは、忘れ物ないか毎朝聞いてきたし。
部活の時間が合わないとき、自分が早い時はいつも待っていてくれたし。
勉強もいつも見てくれて。
でも、勉強はやり方は教えてくれても答えは教えてくれなかった。
いつだって気にかけてくれていた。そんなやつが放っておけるわけがない。
食べ物を見たらなんだかお腹がすいてきたような気がして、でも、卓巳は食べる気にはならなかった。
雅也はどうしているだろう。
そんな考えが頭を回る。
お代を払ったってことは、金は持っているのだろう。
自分より何倍もしっかりしていて、頭も良くて、何でもそつなくこなすやつなんだから、心配なんてすることないのに、どうしても気になった。
まだ温かい丼は今食べないと、せっかく頼んでくれた雅也に申し訳ないと思う。
でも、手をつける気にはならなかった。
――――どうしよう
雅也はどこへ行ったのだろう
そう思いを巡らせていたら、電話のベルが鳴り出した。
「卓巳? 」
電話からは頭から離れないやつの声が聞こえてきた。
「雅也、今どこにいる? 」
「出前届いただろ? 」
質問には答えてくれなかった。
「どこにいるんだよ」
「昼と夜はそれで済ませて、朝はコンビニでも行って、おにぎり買ってきてもいいし、冷凍庫にベーグルがあるから、それを解凍していいし、冷凍庫の中覗け
ば、スパゲティとかうどんとか入ってるから、明日の昼はそれで適当にできるか? 」
「できないよ! 雅也、どこにいるんだよ」
この電話が切れてしまったら、もう連絡は取れない。
どこにいるんだよ、雅也。それしか考えられなくて、雅也の言葉は頭の中を通りすぎていく。
「……もう何でも一人でできるって、よく言ってたじゃないか」
こんなときにはそんなことを言う。
「ずるいよ、雅也。できることばっかり気にしてくれるのに、できないってことは無視すんのかよ」
一人では抱えこめない荷物をもたせたのは雅也だ。
「できるよ、お前なら……」
「雅也、切らないで」
遠くなっていきそうな声にすがり付いた。
「もう、切れるから」
「雅也、帰ってきてよ。夕飯作ってくれよ。雅也が作ったハンバーグ食べたいよ。雅――――」
雅也の答えを聞く前に、ブザーの音が耳に響いた。