今、このドアを叩くやつを卓巳は一人しか考えられなかった。
卓巳は机に向かって、無視をした。
「卓巳? 」
ドアは開かれて、雅也の声がした。
いないのかと、諦めることを期待したのに、雅也は部屋の中へ入ってきた。
「何? 」
机に向かって宿題をやっている振りをしながら卓巳は答えた。早く出ていってくれよ、思う。
「昼とか夜、食べたいもの何かあるか? 」
訊きながら、雅也は部屋の中へ入るとドアを閉めた。ぱたんと小さなドアを閉める音がした。
それを訊くためだけに、部屋へ入ってくることないだろ。
卓巳はそう心の中で呟くと「別に、何でもいいよ」と当り障りのない答えをした。
もう、いいだろ。出て行ってくれよ。
そう言いたいのは、喉元で押し込めた。
早く出て行って欲しいと思う。何か言いたくなる前に――――。

「そうか」
納得したような答えに卓巳がほっとしたのもつかの間、雅也は部屋の奥まで来て、ベッドの上に腰を下ろした。
――――なんで?
机に向かいながら、卓巳は眉をひそめた。
勉強しているのは分かるはずだ。実際どうかは別にして、そう見えるはずだ。
いつもなら、机に向かっていたらすぐ部屋を出て行く。
高校受験で落ちたのは、自分が勉強の邪魔をしていたんじゃないかと思うところもあったみたいだった。
視線は感じた。けれど、卓巳はしばらく雅也を無視していた。
そのうち出て行くだろう、と思っていた。
けれど、動く素振りさえ見せない雅也に卓巳のいらいらは極限まで達した。

「何? なんか他にまだあるの? 」
雅也に向いて、卓巳は言葉を発していた。
「何もないなら出ていってよ。気が散って宿題が進まないじゃないか」
感情は押さえたつもりだった。酷い言葉を浴びせたら、その後で落ち込むのは自分の方だ。
雅也が悲しげに眉を寄せ、視線を落とした。
「まだ、怒っているのか? 」
それは、きっと、あのことだと卓巳には心当たりがあった。あの時から態度が変わった自覚もある。
「何のこと? 」
けれど、しらばっくれた。今更、蒸し返したところでどうにもならない。もう三年近く前のことだ。
「お前が怒る気持ちは分かるよ。だけど、俺はどうすればよかったんだ? 」
しらばっくれたのに、お見通しとばかりに、雅也は言葉を投げかけてくる。
また、しらばっくれたところで、何も先には進まないだろうと、卓巳は思った。

「笹井とうまくいっちゃえばよかっただろ。そう何度も言ったのに」
何度も、何度も、自分の気持ちに素直になってくれと言った。
笹井が好きなのは雅也だとあからさますぎるほど分かったから、卓巳は自分は降りると雅也に言った。好きな人がいるのか訊いた卓巳に最初はいないと雅也は答 えた。そのくせ、じゃあ笹井と付き合ってみれば? と言ったら、好きな人はいると答えを変えた。
誰? 
何度訊いても雅也は答えてくれなかった。
『今は言えない』
そう答える雅也に、卓巳は雅也が好きなのは笹井だと思った。それ以外に考えられなかった。
弟のために、自分が好きなやつも諦める。雅也がしそうなことだ。
そんなことは、もう二度として欲しくなかった。そのためには、自分が離れるしかないと思った。自分が嫌われるしかないと思った。
そんな気持ちを、雅也は少しも分かってくれない。

「俺が好きなのは笹井じゃないって何度も言っただろ」
珍しく、雅也が語尾を荒げた。穏やかで、人当たりがよくて、怒ったところなんて今まで見たことはなかった。
「じゃあ、誰だよ。それを教えてくれなきゃ、信じられるわけないだろ」
きっと、雅也が告白したら断るやつなんていない。だいたい、今まで彼女がいないこと自体がおかしい。近寄りがたくて一歩離れたところで雅也を見ているやつ はたくさんいる。笹井が雅也を好きだと分かって、卓巳はそれに気づいた。好きだという気持ちは無かったにしても、付き合ってもいいかなくらいは思うんじゃ ないかと思う。

「言えないよ」
答えは同じだ。
「なんでだよ」
「相手を困らせることになるから」
雅也が切なげに眉を寄せた。
「はあ? 」
何言ってんだ? と卓巳は思った。告白しろって言ったわけじゃない。
「僕に教えてくれって言っただけだよ。なんでそれで、相手が困るんだよ。言うなって言われたら誰にも言わないよ」
それほど、信じられていないのかと思う。
雅也と自分を比べたら、自分が勝るものなんてない。それは十分、分かっていた。
けれど、言われれば理解することはできるし、簡単に約束を破ったりはしない。
言ってしまえば筒抜けになってしまうと思われていたのかと思うと、やりきれない。

「相手がお前だから……そう言えば納得してくれるか? 」
雅也は卓巳の顔を覗きこむように首を傾げて下から見上げてきた。
――――は?
雅也が言った言葉の意味が卓巳には理解できなかった。
「何、言ってんの? まともに話す気がないなら出ていってよ。教えてくれないなら、信じることなんてできない。それだけだよ」
卓巳は雅也から顔を背けると、机に向かい唇を噛んだ。
もうそろそろ三年が経つ。時効で済みそうなことさえ、ちゃんと話してはくれない。
雅也にとってはいつまでも自分は幼稚園児並なんだと思うと卓巳は自分が情けなかった。

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