「じゃあ、行ってくるわね」
母のその声を卓巳は自分の部屋で聞いた。
「気をつけて」
雅也の声がすぐに聞こえた。だから、卓巳はあげかけた腰を下ろした。雅也はきっと玄関で両親を見送っているのだろう。自分まで見送る必要はないだろうと 思った。ただが一泊二日の帰省だ。

何も変わりはしない。
そう思ってしまうこと自体、変わっているということだ。
落ち着かない。宿題は進まない。だからといって、どうしたらいいのか分からない。
部屋を出たら、雅也に会うかもしれない。そう考えると部屋から出ることもできなかった。父でも母でも他に誰か居れば、こんなに苦しい気持ちにはならない。
二人きりで向かい会ってしまったら、またどんな言葉を言ってしまうか分からない。卓巳はそれが怖かった。

昔は自慢の兄貴だった。
ブラコンと言われても、気にならなかった。それだけすごい兄貴なんだから仕方ない。
そう思っていたのに、不快感を感じはじめたきっかけはたった一枚の写真だった。
今でも、机の奥底一番下に押し込められた写真。
それには、自分が映っていた。中学二年の遠足で取られた写真。映っていたのは自分だけじゃない。何人かのクラスメートも映っていた。その中に、その時気に 入っていた子もいた。
可愛くて人気があったその子を好きだとは誰にも言えなくて、その写真を見た時は、心の中で小躍りした。当然申し込んで、手にして、大事に机の中へしまって いた。
そして、時々出してきて、見てはにたっと笑っていた。
そんなとき、突然ノックの音が聞こえてきて、待っての一言も言えずに、あわてて隠そうとした写真は手から零れて、入ってきた雅也の手に拾われた。
分かるはずはなかった。自分が映っている遠足の写真ってだけだ。
なのに。
雅也には分かってしまった。
「お前、笹井が好きなの? 」
写真を見て雅也は言った。
それは当たり前だったかもしれない。少しでも距離を縮めたくて折り曲げられた写真を折れ線の通り折れば、笹井が自分の隣に立っているようになるのだから。
「返してくれよ」
卓巳は雅也の手の中から写真をもぎ取った。
自慢の兄貴にも知られたくないことだった。いや、自慢の兄貴だからこそ、知られたくなかった。
少し悲しそうな顔をして、協力してやるよ、と雅也は笑った。
「いいよ、余計なことするなよ」
そう口では言ったけど、卓巳はほんの少し期待してしまった。
けれど、結果は最悪だった。

雅也がかけた声に笹井はやすやすのってきた。
それは、笹井は雅也が好きだったんだから当たり前のことで。
何度か、クラスの何人かを誘って遊びに行った。その度、笹井は一緒に行く子に雅也と二人きりになりたいと頼んでいたらしい。
雅也自身が声をかけたのだから、期待もあったのだろう。
一回目で卓巳は笹井の気持ちに気づいた。きっと、雅也も気がついて、でも、雅也は分からないふりをした。
結局、笹井は雅也と二人きりにはなれなかった。
「なによ。このブラコン」
それが笹井の最後の言葉だった。
雅也にかけられた言葉だったのに、卓巳の胸をえぐった。
「ごめん」
その後でかけてきた雅也の言葉に、卓巳は体の中でぱきんと何かが割れた音を感じた。
「もう、僕に構わないで」
言いながら、卓巳は体が冷たくなっていくのを感じた。

あれから、二年以上が経った。
構わないでくれと言ったのに、雅也は変わらなかった。
好きな人がどうのこうのという話はしなくなった。だから、それだけのつもりだったのかもしれない。
もう一人で何でもできると言っても、それを分かったと言っても、雅也は変わらない。
いつも視線を感じた。以前は見ていてくれることが嬉しかったのに、それは、卓巳の中で煩わしさに変わった。

「はぁ――――」
ため息がひとつでた。
そこに、ノックの音が聞こえた。

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