「まあ、雅也に会わなかったの?」
ずぶぬれの卓巳を見て驚いたように母は言った。
「会ったよ」
上着を脱ぎながら卓巳はぶっきらぼうに答えた。
「じゃあ、傘を持っていたでしょう? ついでがあるから駅を覗いてくるって言っていたから」
「さあ、知らない」
ズボンを脱いでダイニングテーブルの椅子へ放ると、卓巳は風呂場へ行った。
「乾くかしら」
困ったような母の声が背中から聞こえた。
「いいよ。乾かなかったら適当にしていくから」
大声でそれだけ返すと、濡れた下着を洗濯機に放り、風呂場の中へ入った。
自業自得なのは分かっている。シャワーを捻ると出てきたのは水だった。少し体にかかってぶるっと震えた体はそれを罰だと思った。程なくして水は温かさを増 していく。水のままシャワーを浴びて、あるいは、濡れたままでいて、風邪を引いたとしたらそれは卓巳 が悪いのに、雅也はきっとそう思わない。だから、そんなことはできない。熱でも出そうものなら、きっと寝ずに傍にいてくれるだろう。きっと今日のように、 何か言い訳を用意して。
本屋のついでじゃない。本屋がついでなんだろう。本屋へ行ったかどうかさえ、怪しい。

風呂から上がった後、バスタオルを体に巻いて、タオルで髪の毛を拭きながら、階段を上ろうとしたら、玄関のドアが開いた。
入ってきた雅也と視線が合ったのは一瞬で、ふと目に入った手元には紙袋があった。本屋には行ってきたらしい。そのことに、ちょっとだけほっとしている自分 がいた。
何も言わずに階段を上がっていた。『おかえり』も『ただいま』も今はそぐわない気がした。
「風邪ひくなよ」
声だけが階段を上ってくる。
わかってるよ――――卓巳はそう心の中で返した。振り向くことも声を出すこともできなかった。
呆れたらいいのに、もうお前の面倒なんか見てられない、そう思ってくれたらいいのに。
そう思いながらも、言葉にすることはできなかった。できるのは、せいぜい反抗してそっけなくすることぐらいだ。
そして、自分がしていることにきりきりと胸が痛くなる。悪循環なのは分かっていて、抜け出せずにいた。


夕食の時、突然母が、週末は二人で大丈夫よね、と言った。父と二人で田舎へ行くと言う。
「なんで?」
卓巳は疑問を口にした。
「三回忌の法事があるのよ」
そう言われて、卓巳は去年祖父が亡くなったことを思い出した。小さな頃は学校が長い休みに入ると、家族揃って帰省していた。が最近はあまり行っていない。 去年行ったときに久しぶりだと思った。
「大丈夫だよ」
雅也が答える。整った顔立ちで優等生然とした態度は誰からも信頼されていた。
ここでだめだとは言えないし、言いたくもない。
「雅也、お願いね」
母も雅也を信頼している。
「ああ」
雅也の承諾に、母は箸を取った。
卓巳を蚊帳の外に置いたまま、話は終わったようだった。
週末を雅也と二人で過ごす。
だからといって特に変わることはない。きっと、家事らしきことは雅也がやるだろう。週末は家族四人で食べている食事が二人きりになるだけだ。
何も変わらない、そのとき卓巳はそう思った。

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