裕が床に足を投げ出しベッドにもたれて、天井を見上げていた。テーブルの上には、答案用紙のプリントが数枚重なりあってばら撒かれている。
九十点以上のものが何枚かあって、八十点以上のものも何枚かあって、その中に、たぶんそれが一番でっかい数字で点数が書かれているものなんだろうと思うも
のがあって、それは 79点 と書いてあった。
その現代国語の答案には一つだけ三角があって、赤い字で大きく『づ』と書かれていた。『づ』と送り仮名を振らなければいけないところに、『ず』を使ってい
たらしい。
今回のテストは手ごたえがあったと裕が言い、テストが終わった日に、ドラッグストアで色々と買い物をした。その日に返してもらった答案用紙は全て八十点を
越えてい
た。
一日休みがあって、その後、ぼちぼちと授業時間に返してもらった答案は予想通りの結果らしく、その度にガッツポーズをするから、周りの「なんだよ」とか
「どうしたん
だよ」とか揶揄する声もあいまって孝己はなんだか恥ずかしくなったりした。
現国は最後だった。今回はできが良くて平均点も高かったと担当の矢島は教壇についた途端に口にした。
「だから、ちょっと採点は辛くしたぞ」
そう矢島が続けた言葉が孝己は耳に残った。
まあ、そういうことだったわけだ。
三角の印の横に −1 とわざわざ書いてあった。
名前を呼ばれ答案を取りに行った裕は、その場で固まっていた。後ろのやつに声をかけられて、くしゃっと答案用紙を握り締めた。だから、そのプリントだけ皺
がよってくしゃくしゃになっている。明らかに落胆を浮かべていた裕の顔に、孝己は落胆とともにほっとした気持ちも感じた。
「そうだと思ったんだよね。そうだよな、絶・対・そうだって思ったんだよ」
帰り道うわごとのように繰り返す裕に孝己は返す言葉が無かった。
絶対を強調するから、
――――だったら、そう書けば良かったんだよ
と心の中で突っ込んでおいた。
慎重になりすぎて間違えてしまうことはあることで、時に自分が一番信じられないと思うこともある。
裕にとって八十点以上なんてそれほど難しいことではなくて、勝算があって出した点数だと思うから、尚更悔しいだろうとは思った。
一番苦手な現代国語で本人は慎重をきしたつもりだったんだろう。それが裏目にでた。
そんなことはよくある事だ。
いつものように学校帰りに孝己の部屋へ来て、鞄を放り投げると裕は大きくため息をついて床へ腰を下ろし、ベッドの縁へもたれかかった。
そのまま、会話もなく時間だけが過ぎていく。
残念だったな、なんて自分が言う言葉じゃないと孝己は思うし、話を逸らすにも適当な話題がない。昨日のTV番組の話なんてしても空々しいだけだし、友達の
話とい
えば女の話が大半だったりする。
だから、孝己はそんな裕を少し離れた場所からただぼんやり眺めているだけだったりする。
――――どうしようか
鞄の中を思い浮かべながら、孝己は思った。
言い出したのは裕だから、それがだめだった以上、そこでこの話は終わりにするのがいいのかもしれない。自分が余計なことを言ってはいけないような気もす
る。
次のテストでリベンジ、というのなら、二期制だから夏休み明けになる。その前にというなら、球技大会がある。でも、それは団体競技だから、たとえ優勝した
として
も、それを理由にするのは、なんか違うと思った。
思った以上に裕が落胆しているようで、そのままでいるのも落ち着かない。
でも。
裕のために? 本当にそうなのだろうか。
――――違うだろ
自問自答に心の声は即答した。
自分だって、どきどきしながら、少し不安に思いながらも、待っていたことは事実だ。
「裕」
孝己は立ち上がって裕の横へ膝をついた。
「何? 」
裕は不機嫌そうに天井を見上げながら答える。
「僕にはご褒美くれないの? 」
問い掛けると、裕の体がぴくっとはねて孝己を見た。
「え? 」
怪訝そうな顔をする。
「僕は全部、八十点以上だったよ」
裕だけ勉強させるわけにはいかないと思った結果だ。
「でも、お前――――」
裕が視線を彷徨わせる。
「繋がりたいと思うのは僕も同じだよ」
何度も夢には見た。
「でも、お前は嫌がっただろ? 」
「いつ? 」
嫌がった覚えはない。
「キスまでだって言っただろ? 」
そんなことはあった。
「一回だけだろ」
初めてこの部屋でキスした時だ。
「男ってデリケートなんだぞ。一回言われりゃ十分だ」
裕は投げやりに言う。
孝己は自然に口元が緩んだ。
「僕は待ってたのに」
もしかしたら今日、そんな気持ちをいつも抱えていた。
「お前、そうならそうと言えよ!」
答えた声は怒りに近かった。
「ごめん」
自分が悪かったのかなと思って、孝己は素直に謝った。
言われなきゃ人の気持ちは分からない。孝己自身、十年間分からなかった答えをもらったのはついこの間だった。
「いいのか? 」
今度は不安げな声で問い掛ける。
「ん」
孝己は頷いた。
裕の手が頬に触れる。
目を閉じて裕の唇を感じた時、とんとんと階段を上がってくる音が聞こえた。
はっとしてお互い離れた。向かいあう裕の視線はドアへ向けられていた。
誰だろう。そう思いながら、孝己もドアの方へ体を向けた。
誰だったとしても部屋には入ってこないだろうと思っていた。なのに、足音はドアの前で止まって勢い良くドアが開いた。
「孝己ー」
能天気な声と共に、姉の七実が入ってきた。
「ノックぐらいしろよっ」
孝己は思わず叫んでいた。
「何よ、怖いわね。弟の癖にっ」
七実が言い捨てる。
「ここは、僕の部屋だよっ」
まさか姉が帰ってくるとか、突然部屋に入ってくるとかは考えていなかった。バイトだとかデートだとかサークルだとかで最近まともな時間には帰ってこない。
「いいじゃない、弟なんだから」
他人の気持ちなどお構いなしに、七実はテーブルまで来ると、プリントを一枚手に取った。
「まあまあ、いい点じゃない。なんだ裕のか」
裕まで弟扱いのように言った。
「なんだよ。用がないなら出ていけよ」
いいところを邪魔されたのだから、文句しかでない。
「裕がいるなら、いいわよあんたは」
――――はあ?
「何言ってんだよ」
姉といえども、裕を呼び捨てされたことも孝己は気に入らなかった。
「ねえ、裕。誕生日プレゼントって何がいいかな」
七実は孝己を手で制するような仕草をして、裕に向かって聞いた。
「え? 俺? 」
裕がきょとんとした顔をした。
「そう、裕なら何が嬉しい? 」
「なんだよ、突然」
文句を挟んだ孝己を七実は睨んだ。
「え、俺なら……時計とかキーチェーンがいいかな。いつでも身に付けていられるから」
裕は七実に向かって答えながら、一瞬孝己を見た。
「そうか、なるほどね。サンキュ」
七実は手をひらひら振ると、
「あんた達も早く、プレゼントもらえる人作りなさいよ」
と余計な一言を言って、部屋を出て行った。
パタンとドアが閉まる音がした後、裕と孝己は見詰め合ってため息をついた。
ほんの少しの時間の来客に、完全にその気をそがれていた。