胸はとくんとくんと小さな規則正しい音をたてていた。
部屋のドアを閉めると、そこは二人だけの空間になる。
「……おばさん、来ないのか? 」
裕が小声で囁くように言った。
まるで、これから悪いたくらみでもするかのような、そんな雰囲気を感じた。
「来ないよ……たぶん」
今まで来たことはない。だから来ないだろうとは思う。勝手知ったる裕だ。何か欲しければ遠慮なんてせずに言ってくるだろうと思っているだろう。それは、今
までの実績だ。
だけど、少し不安になるから、孝己は絶対とは言えなかった。
こんな時に限って――――そんな言葉は世間でよく耳にする。
「鍵ないのか? 」
「あるわけないだろ」
そんなモンつけたいなんて言ったら、余計怪しまれるだけだ。
「どうすんの? おばさんが突然入ってきたら」
「ノックぐらいするだろ」
きっと――――心の中で付け加える。誰か友達がいるときに来たことがないのだから分かるはずがない。
「いいのか? 」
裕が顔を覗き込んでくる。
「何がだよ」
胸のどきどきは止まらなかった。
「おばさんに知られたとしても」
とんでもないことを口にする。
良い訳がない! 知られたと想像するだけで背筋がぞっとする。
「お前は? 」
孝己は質問を返した。
お前はどうなの? 母親が知ったら裕の母親にも絶対ばれるだろう。そのまま階下に行ってあわてて電話するかもしれない。
「俺は……」
裕が口を噤む。
そんな事訊かれたって困るだろ、そう言い返そうとした。百%望みがかなうなんて事はない。どうしたって我慢しなきゃいけないことはある。
丁度部屋は二階だから気をつけていたら階段を上ってくる音が分かるだろう。女が来てるわけじゃないから、まさか、抜き足差し足で様子をうかがいに来るなん
てことはないだろうと思う。だから、それくらいは我慢しなきゃいけないだろう。孝己はそう思っていた。
「俺は、おばさんに土下座してお前をくれって言うよ」
それこそ、結婚の承諾をもらいにきた花婿候補みたいに、真面目な顔をした裕はまっすぐに孝己を見て言う。
「は? 」
孝己は呆気に取られるしかなかった。
「だから……」
裕の顔が近づいてくる。
「待てよ」
孝己は手で裕の胸を押して、顔を伏せた。
「まず、鞄置こうぜ」
まるで道端の立ち話のようだった。部屋に入った途端話し掛けられて、鞄を置くタイミングさえ見失っていた。
裕は驚いたように、自分の肩先を見る。そして、あわてて鞄を下ろすとドアの近くへ放った。
「は、そうだよな」
裕が照れたように笑う。
自分もどきどきしていた。けれど、裕の方がもっと余裕が無かったのかもしれない。
孝己は自分の机の前まで行くと、鞄を上に置いた。
胸はとくんとくんと体の中で響いている。
ただキスするだけで、それも初めてじゃなくて、そんな大したことないだろ、そう思うのに、胸のどきどきは止まらない。
後ろを振り返ると、目の前に裕がいた。
「ちょ――――」
待って、と言おうとしたのに、裕に肩を捕まれ唇を塞がれた。
「んんっ……」
小さい頃の可愛いキスじゃなくて、深く合わされた唇はすぐに舌を差し込まれた。逃げようとしても、追いかけてくる。孝己は諦めて、裕の背中へ腕を回した。
絡まってくる舌は、甘さをともなっていた。口内を探るように動き、優しく撫でる。くちゅっと濡れた音が耳の中に響く。肩を掴んでいた裕の腕は片方は頭を支
え、もう片方は背中へ回される。
何度も場所を変え、触れられていないところなんてないと思えるほど、裕の舌が自分の口内をまさぐる。
孝己は体の力が抜けていきそうだった。裕の腕に支えられてかろうじて立っている。まさか、キスだけでこんな風になるとは思っていなかった。
「ん……」
頭の中が白んでいく。体は宙に浮かんでいるようだった。
突然唇が離れて腕が解かれ、バランスを崩して倒れそうになった体は机に支えられた。
「孝己っ」
あわてたように裕が手で支えてくれる。
「ばか……」
思わず口走っていた。急に離すなんて反則だ。
「ごめん」
裕が気まずそうな顔をする。
「だってよ――――」
視線を伏せた。
「何だよっ」
孝己は体はふにゃふにゃなくせに言葉だけは不思議と強気だった。
「これだけじゃ、終わらなくなりそうだからさ……」
視線の先を感じて、孝己は体を隠すように捻った。正直な体はちゃんと反応して意志とは関係なくその状態を如実に表す。
「いいじゃん。お前だけじゃないんだから」
ぎゅっと抱きしめられて、裕の硬くなったものを感じた。
「お前が悪いんじゃん」
言葉は止まらない。最初からあんなに濃いキスをされるとは思っていなかった。触れて少し戯れて、そんなつもりでいたのに、実際は自分の意志など関係なしに
走りだす。
「俺? 」
裕が孝己の覗き込むようにきょとんとした顔をする。
「反則だよ……」
初めてと二回目じゃあまりに違いすぎる。過ぎ去った歳月を考えれば、ギャップはあって当然かもしれない。
けれど。
「どこで、こんなキスの仕方知ったんだよ……」
言葉は文句しかでてこない。
いつも一緒に居たはずなのに、その手の話だって一緒にしていたはずなのに、自分の想像とははるかに違っていた。
「仕方? 」
裕は更にきょとんとした顔をした。
「あ、だって……」
最初は裕の方が余裕が無さそうだったのに、完全に逆転していた。ねだりそうになる自分がいる。
「そんなに良かった? 」
裕が意味ありげに口元を緩める。
「ばかっ、そんなこと聞くなよ」
キスされるだけで勃ってしまっていた。よくなかったら、そうなるはずがない。
「俺はよかったぜ」
裕がぎゅっと頭を抱きしめる。服の合間から零れる裕の匂いを感じた。
好きだと思う。腕の中にいることを幸せだと思う。そこにひとつ小さな不満がくすぶる。
「もう終わり? 」
不満が呟きになった。
「ん?」
「もう、終わり? 」
問い返された言葉にもう一度繰り返した。落ちていくその途中で突然放り出されて気持ちが落ち着かない。
「したい? 」
裕が意地悪そうに言う。
「したいよ」
当たり前だろ、そう心の中で呟いた。
「でも、このままじゃ嫌だ」
裕の手を引くと、孝己は裕をベッドの上に押し倒した。思い通りにされるばかりじゃちょっと癪で少しは自分も主導権を持ちたい。
上から裕に覆い被さると、裕はふっと笑った。
「やっぱ、こっちだろ」
簡単に体をひっくり返される。
裕の顔が近づいてきて、孝己は目を閉じた。啄ばむように触れた唇は今度は直ぐに離れた。
「今日はどこまで? 」
言いながら裕が孝己の前髪を梳きあげる。
「キスだけだよ」
言葉だけは強気で出せた。
「そっか、残念」
ため息交じりに裕が言う。
ばかやろう――――孝己はそう叫んでやりたかったのに、唇は塞がれて声は出せなかった。
分かってやっているのか、裕のものと自分のものが微かに擦れ合う。唇はさっきよりは浅く重ね合わされて、舌先で戯れる。
欲望のまま走ってしまったら、きっと制御はきかなくて、それが分かっているから抑えてくれているんだと分かる。
孝己はそっと裕の頭と背中へ手を回した。
裕がその気になったら抵抗はできないだろう。けれど、全てを受け入れてしまうことにはまだ抵抗がある。
裕が啄ばむ唇に応えながら、今日は拒んだその先を近い将来自分から望んでしまうのかもしれない、そう孝己はぼんやり思っていた。