冬も深くなり朝吐く息が白くなっていた。昼近くでもまだ空気が冷たい。
遼平との関係が終わってからもう二ヶ月近くが経つのに、智也は塾から出て階段を降りると、遼平がいつも車を止めていたところへ目がいってしまった。
まるで習慣のようになっている動作は、車がないことを確認して駅へ足を向けることなのに、今日は足が動かなかった。
先週も先々週もその前もずっと待っているはずはなくて、車も止まっていなかった。
けれど今は車が止まっているのが見えて、もしかしたらと智也は思った。哲平が気にしているようなことを言っていたから様子を見にきたのかもしれないと思っ
た。
足早に車に近づいて、途中で違うと分かって足が止まった。
遼平が乗っている車はセダンタイプなのに、止まっている車はワゴンタイプだった。
気にしているなら、自分で会いに来て自分で聞けばいいのに、と思った。
嫌なやつのはずなのに、いないことが悲しかった。
前へ進むことも、後へ戻ることもできずに智也は立ち尽くしていた。
「智也? 」
背後からかけられた声に智也がはっとして振り向くと、哲平がいた。
――――なんで?
「どうしたんだよ。唇が青くなってるぞ」
哲平が不思議そうな顔をする。
なんで、哲平なんだよ――――心は不満を呟く。
「何かあったのか? 例のやつがらみか? 」
心配そうに眉を寄せて、頭に触れてきた手はすぐ離れた。
「冷たっ!お前何っ、終わってからずっと立ってんのか? 」
好きなやつが目の前に立っているのに、智也の頭の中は違うやつが居座っていた。
「何もないんだ」
「はっ?」
哲平が怪訝そうな顔をする。
「じゃあ、どうしたんだよ」
「哲平は講義だろ? 行かないと」
時間は分からない。けれど、哲平がいるってことはそういう時間なんだと思った。
「行けるかよ。どうしたんだよ。何があった? 」
「だから、何もないよ」
何もないことが、なぜかすごく悲しい。
「何もないって顔じゃないだろ? 」
「本当に、何もないんだ。だから――――」
行っていいよって言いたかった言葉は喉元に消えていった。
哲平、会いたいんだ。
そう頭の中は言葉にする。哲平に頼めば会わせてもらえる。弟の友達という立場ならいつでも会うことができる。
「あぁっ、もう」
時計を見て、哲平が頭をかきむしる。時間は迫っているんだろう。塾の階段を上がっていく人は足早になり数は増えていた。
「本当に、行っていいよ」
「でも」
遼平と同じ優しい哲平は普段と様子が違う友達を置いてはいけないらしい。
「……いつものファミレスで待ってるから」
智也は家に帰る気にはなれなかった。
「ホントだな」
「ん」
頷くと、背中を見せた哲平がもう一度振り返った。
「絶対だぞ」
「ん」
智也はもう一度頷いた。
塾の中へ消えていく哲平を見送って、智也はファミレスへ足を向けた。
会えるかもしれないと思う気持ちは会いたいに変わっていた。いつも同じ場所で待っていてくれた。遅れたことなんて一度もなかった。どんなにそっけない態度
をとっても、いつも優しかった。そのことに、いつからか甘えていた。
卑怯なやつだよ――――そう頭の中で囁く声がある。
うん。そう素直に答えられる。
すごい卑怯なやつだ。
ずるい手を使って入り込んで、心の中をぐちゃぐちゃにかき回していった。
大嫌いなやつだけど忘れられるわけがない。初めて体を重ねたあいつは嫌になるくらい優しかった。
ファミレスに入ってきた哲平が忙しそうに辺りを見回して、智也の方を見るとほっとしたように口元を緩めた。
「どうしたんだよ」
心配そうに覗いてくる瞳に良心が痛んだ。
「相談があるんだ。誰もいないところで」
哲平のお兄さんに会いたいとは言えなかった。
「うちに来る?」
待っていた言葉に智也は無言で頷いた。そして、ごめん――――心の中で哲平に謝った。
哲平は何もオーダーすることなくすぐに店を出た。
哲平のことが大好きだったはずなのに、いつのまにかその気持ちは友達のものへと変わっていた。遼平のことを思えば会いたくて切なくて苦しくて、嬉しいとか
楽しいとかはない。
「あ、兄貴帰ってるわ」
玄関で哲平が呟く。
見覚えのある靴がきれいに揃えて置いてあった。
「お兄さんにも聞いて欲しい……」
胸が熱くなってくる。会える、やっと――――そう思う。
哲平は少し意外そうな顔をした。
「まあ、あがれよ」
哲平に言われて、
「お邪魔します」
智也は小さな声で答えた。
会えると思うと胸がとくんとくんと跳ねる。そんなに時間は経っていないのに、ずいぶん懐かしい気がした。
「兄貴、居んの? 」
哲平が居間のドアを開けて声をかけた。
「おかえり」
哲平に答える声が聞こえて、胸が熱くになった。
「智也、来いよ」
哲平に手招きされて、智也はゆっくりと足を出した。
居間の入り口から智也が顔を覗かせると、ダイニングの先にあるキッチンに遼平がいた。
コンロの前に立っていた遼平は呆然とした顔を智也に向けていた。なべからはぐつぐつと何かが煮立っている音がした。
「こん……にちは」
智也の口から出た声は震えていた。
「え、あ、何? 」
遼平が視線を哲平に向ける。
哲平がキッチンの遼平のところへ行ってなべを覗き込んだ。
「まだなんだ。ちょうどいいや。俺達の分も作ってよ」
「え、あ、別にいいけど」
遼平は戸惑ったように、それでも了解した。
「兄さんが作ったラーメン、うまいんだぜ」
哲平が智也の方を見て遼平の肩を叩いた。
居間のテーブルに哲平の隣、遼平に向かいあって智也は座った。
白く湯気のあがっているキャベツと焼き豚がトッピングされて盛られたラーメンの量は智也のものがあきらかに少なくて、遼平の気遣いなんだと智也は思った。
「まあ、まず食えよ」
哲平に促されて、智也は両手を合わせて「いただきます」と小さく呟き箸を取った。
遼平が作ってくれたものだった。
一口、口に入れて、胸が一杯になって智也はその先が食べられなくなってしまった。