智也は家に帰って自分の部屋へ入ると勉強机に鞄を置き、そのまま腰を下ろしてポケットの中から紙幣を取り出した。
二つ折にしていた紙幣を広げると、不機嫌そうな顔の福沢諭吉が文句ありげな視線を向けてくる。
――なんで?
そう思う。
ポケットから出して哲平に渡せばそれでよかったのに、わざわざ鞄をあけて財布を出してその中の一万円札を哲平に渡した。
忘れていたわけではなくて故意だった。ポケットの中に入っているのは分かっていて、それでも手は鞄をあけていた。ポケットの中のものを渡したくなかった。
――どうして?
清々したはずだった。
もう、忘れてしまえばいいと思った。
なら、尚更こんなものは持っていない方がいいに決まっている。
「明日使ってしまえばいいか……」
ガムでも飴でも駅の売店で買えば、それで使える。
智也は未だ不機嫌そうな福沢諭吉を財布の中へ収めた。
気持ちはともかく智也の生活は遼平と会う前に戻った。
朝は教室の真中で机の上に輪になって座って、わいわいやっているのが常だった。
来るやつは入って呼ばれたり用ができたやつが抜けて、うまいぐあいに人数の調整がとれていたりする。
哲平よりも智也の方が教室へ来るのが早い。教科書を机に入れたり、宿題やら提出物を確認していると哲平が来る。ただ鞄と机に放っておしまいの哲平とだ
いたい同じくらいに輪に加わる。当然、隣を確保していた。
大好きな哲平の声がすぐ傍で響く。大好きだったそれは今、嫌なやつのものと重なる。
少し遼平の方が低いかな、と思う。それは二人を知って、二人の声をよく聞いた今だから言えることだ。時折重なることがある。えっ?と思って見ると哲平なの
に、遼平の声に聞こえることがあった。
教室に入ってきた日野が鞄も置かずに哲平のところへ来て、肩を叩いた。
「おっ」
哲平が挨拶代わりに手をあげる。
「昨日の、ホントにお前じゃないの? 」
日野は眉をよせひどく怪訝そうな顔で哲平を睨んでいた。
「ホントだよ。ずいぶんしつこく兄貴に絡んだみたいじゃん」
兄貴?
その言葉に智也ははっと哲平を見上げた。
もう関係ないはずのやつだと思っても、気に掛かかった。
「だって、信じられるかよ。お前の携帯だろ? 」
「貸したんだよ。ぶっ壊したつーから。見せてもらったら接続部分から真っ二つで、そりゃあ使えないやと思ったからさ」
携帯? 真っ二つ?
智也が遼平の携帯で話したのはつい二日前だった。
「でも、声そっくりだったぜ」
「なんかさぁ、よく言われるんだけど。そっかあ? 」
――――そうだよ
智也は心の中で呟いた。
「そうだって。ぜっていっ! からかわれてるんだと思った」
日野が絶対を強調する。
「哲平の兄貴っていくつ? 」
輪の中から声があがった。
「二つ上」
「大学生かよ。どこ大? 」
話は膨らんでいく。
兄弟がどこへ行っているかは結構興味の対象だったりする。情報は手にいれておいて損はない。来年は受験生だ。
哲平の答えは歓声になった。
智也はすっと輪から抜けた。
きっと、哲平は根掘り葉掘り聞かれるだろう。どこの塾へ行ってたとか、どれくらい勉強してたとか、どの問題集やってた、とか。
そのひとつひとつが全てあいつのことだ。
忘れなきゃいけないのに、学校に来てまでなんで話題がでるんだよ、と思う。
ぼんやり席に座っていたら、頭をこつんと小突かれて顔をあげると、哲平だった。
「どうした? 」
心配そうに見てくる。
「何でもない」
そう何でもない。全て終わった。
「最近、おかしいよ、お前」
最近?
いつからそんなことを思っていたのだろうと思った。
哲平は敏感に人のことを気にするタイプじゃない。どちらかといえば鈍感で、だから人付き合いが苦手な智也も哲平には気軽に接することができた。
「ねえ、今度映画でも見にいかない? 」
哲平がえっと驚いた顔をする。もっぱら誘われるばかりで誘うことはなかった。
「いいけど……今度の休みにでも行くか? 」
「うん」
嫌なことは早く忘れるためにも哲平と楽しいことだけ考えればいいと思った。
「じゃあ、宮下とか斉木とか日野とか誘うか」
「そうだね」
友達だから、二人きりは望めない。
「なんか見たいもんある? 」
哲平に訊かれて、智也が首を傾げたところで予鈴が頭上から聞こえてきた。
日野の意見で日曜日今話題の映画を見に行くことになった。
ばりばりのラブストーリもの。
高校生の男が団体で見に行くものか? とも思ったけれど、ヒロインのファンが押し寄せているらしい。
もちろん日野もファンの一人で、「かわいいよな〜」なんてとろけた顔をする。
智也はアイドルとかタレントにあまり興味はなくて知らなかったけれど、なかなか人気があるらしい。哲平も自分の大好きなグラビアアイドルの次にいいな、な
んて言って
いた。
届かない思いは辛いけれど、友達としてでも傍にいられることに感謝しなければいけないのかもしれない、と智也は思った。
もし、あの電話に出ていたのが哲平だったら、今ごろは話もできなかったかもしれない。
冷たい目で見られていたかもしれない。
そう思えば。
「良かったんだよ……」
自分を納得させる。
最悪の結果にはならなかった。