何もない、いつもと同じ帰り道。
不意に顔が緩んでしまい、遼平は俯いた。
――――これじゃ、変なやつだよ
そう思いながらも、弾む気持ちが止まらない。
何の脈絡もなく智也の顔が浮かんでしまうともうだめだ。
大学でもバイト先でも電車の中でも家でも。
『なんかいいことあったのか? 』
そう一様に訊かれる問いに言い訳をするのが苦しかった。
『別に』
そう答えながら、愛想笑いをしてしまう。
今も電車の中で、大学の友人と別れた途端、智也の顔がぽんと浮かんだ。
諦めかけたその時に、智也は欲しかった言葉をくれた。自分だけじゃなく、智也も望んでいることが遼平は嬉しかった。
あれから、もう一週間が経つ。
明日になれば、智也に会える。そう思うと自然に顔が緩んでしまう。
欲しいと言ってくれた智也が可愛くて、思わず顔を寄せると逸らされてしまった。けれど、切なげに訴える顔は嘘だとは思えなかった。
体だけだと分かってはいる。それでも、一歩近づいた気がする。
最初のスタートを間違えているのは分かっているから、少しずつでいい。少しずつ受け入れてくれればいい。長い時間をかければ、恋人として受け入れてくれる
んじゃないかという気までしてくる。
とりあえず明日はどうやって喜ばせてやろうかと思う。
この間、智也が気に入ったようだったところへまた行こうかなんて思ったりする。内容と金額はやっぱり比例して、いいなと思うところはそれなりにいい値段
だ。それでも、智也が喜ぶならいいかな、なんて思った。
今まで付き合ったやつに、そんな感情は持たなかった。
もとより、男に対してこんな感情を持つとは思わなかった。
全てが特別だった。
家に帰ると、玄関の鍵は開いていた。
「ただいま」
家にあがり、一応居間に向かって声をかけると、遼平は部屋へ行くために階段を上ろうとした。
すると。
「遼平っ」
思いがけない哲平の声が居間から聞こえた。
何かあったけ、そう思いながら遼平が階段の上がり口で立ち止まっていると、居間のドアを開けて哲平が顔を出してくる。
「いいとこに帰ってきた。ちょっと相談があるんだけど」
言いながら、手招きをしてきた。
「何? 」
別に急ぎの用事があるわけじゃなかった。
遼平は鞄を部屋に置いたら、下へ戻ってくるつもりでいた。小腹もすいていたし、何か飲みたいと思ってもいた。
遼平は哲平に誘われるまま、
鞄を抱えて居間に入った。そして、居間に入って固まった。
ソファに智也が座っていた。
「……こんにちは」
遼平は、とりあえず一般的な挨拶をした。
何か言わないといけないだろうと思った。哲平は遼平と智也との関係を知らない。智也は困ったような顔をして、小さく頭を下げると、そのまま俯いてしまっ
た。
「いいとこに帰ってきたよ。こいつ、一回会ったことあるだろ?」
哲平がソファに座るようにと遼平の体を押す。
「ちょっと飲み物もってくるよ」
哲平をかわすように、遼平は台所へ足を向けた。飲み物が欲しいことは確かだったけれど、哲平がいるところで、智也と向かいあってじっくり話なんてことを遼
平はし
たくな
かった。
冷蔵庫から麦茶を出して、グラスに注いでいると、
「あれで、兄貴、結構頼りになるから、大丈夫だよ」
暢気な哲平の声が聞こえた。
「で、何? 」
遼平は台所から声をかけた。
相談があるのは、智也らしい。台所から哲平は見えても、智也は見えなかった。
「智也、話してみろよ。大丈夫だから」
哲平が声をかける。けれど、智也の声は聞こえなかった。
ニ度、三度、哲平が急かす声は聞こえたけれど、智也の声は聞こえなかった。
「いやさ、智也がストーカーに狙われてるらしいんだ」
業を煮やしたらしい哲平が遼平の方を向いて言う。
――――ストーカー?
最近よく耳にする言葉だった。
しつこい相手について指す言葉で、絶対に良い意味には使われない。
「なんか、最近元気なくてさ。問いただしたら、やっと白状したんだけど。こいつ見た目可愛いから、そんなのも有りかなとは思うんだけど、実際問題、どうし
たらいいのか困るよな」
哲平がため息をついた。
遼平は一気にグラスを飲み干すと、台所の入り口まで行き、智也を見やった。
智也はソファに座りながら、体を丸めるように俯いていた。膝の上に置かれた手が小さく震えているように見えた。
ストーカーって誰のことだよ――遼平は心の中でそう智也に問いかけた。
「相手は男だっていうから、下手なことしたらこっちが危なそうだし、かといって警察へ行くってのも、なんか大げさすぎる気がするし、何かあってからじゃ遅
いし、親には知られたくないって智也は言うし」
哲平が智也を横目で見ながら言う。
「ストーカーなのか? 」
遼平が言うと、智也の体がぴくっと反応した。
「なんか、塾の後で待ち伏せしてるらしい」
哲平の言葉に、遼平は体中の血がすっと引いていくような気がした。
智也は下を向いたまま、膝にのせていた手をぎゅっと握った。
――――ストーカー?
智也は否定しなかった。ということはそう思っているらしい。
遼平はごくりと喉を鳴らした。
「……そんなの、止めてくれって言って止めないなら警察行くしかないだろ」
すっと言葉がでてきた。
「でもさぁ」
哲平が悠長に反論する。
「哲平、お前が行ってやれば? お前が行ってやめろって言ってやればいい。そんなやつはきっと気が小さいから、哲平の図体だけで怯えちゃうよ」
頭では何も考えていないのに、言葉がすらすらと出ていく。
「そうかなあ」
「ああ、そんなもんだよ」
断言してやった。哲平がでてくるというのなら、絶対引く相手だった。
「智也、明日だよな、塾」
哲平が智也に向かって言うと、俯いたまま智也は小さく頷いた。智也が体を強張らせているのが分かった。
「行ってやろうか」
哲平が言うと、はっとしたように智也が顔をあげた。潤んだ瞳が光っていて、どうしたらいいのか分からないような顔をして、遼平を見て瞳を揺らす。けれ
ど、すぐに哲平の方へ視線を向けて、かぶりを振った。
「遠慮することはないよ。哲平に来てもらえばいい。つきまとわれるのは嫌なんだろ? 」
言いながら、遼平は胸が締め付けられるように痛くなった。智也がうんと言えば自分にとどめを刺す言葉になる。
智也は眉を寄せ切なそうな顔をすると下を向いた。握っている両手は震えたままだった。うんとも言わなければ、違うとも言わなかった。
「哲平、人がいないところではやめておけ。付いているだけでも手は出せないだろうから。それと、携帯は常に手に持っていた方がいい」
ごく当たり前だと思われる注意を遼平は口にした。その相手が自分だと哲平に思われたくなかった。
「ああ、そうだね」
哲平が頷く。
「哲平に任せておけば大丈夫だよ」
智也に声をかけると、ゆっくりと顔をあげた智也がすがるような瞳を見せる。
「大丈夫だよ」
もう一度言うと、遼平は哲平の肩を軽く叩いて、鞄を抱えると、居間を出た。ドアを出て小さくため息をこぼすと、階段を上ってまっすぐ自分の部屋へ入った。
鞄を放ってベッドに体に転がし、受け止めてくれるものを感じると体の力は抜けていった。
「送ってくるから」
遠くから聞こえてきた哲平の声に遼平は返事をする気力がなかった。玄関のドアの音がして、その後、静けさが広がった。
体に力が入らなかった。何か釈然としないもやもやした気持ちが胸の中で渦巻いていた。
自分が酷いことをしているのは分かっていたはずなのに、ストーカーという一言が堪えた。もっと
酷いことをしているはずだ。それも分かっているはずだ。なのに、あの一言を聞いた途端、全てが終わったように感じた。後は、その当人が自分だと分からない
ように適当な言葉を並べていた。つくづくずるいやつだと思う。
ただ、なぜあの言葉がそれほどショックだったのかまだ分からずにいた。
ほとんど機能が停止しているんじゃないかという脳みそがひとつの考えを提示する。
――――そうか
気が付いたことで分からなくてもやもやしていた気持ちはすとんと胸の中へ落ちていった。
ストーカーという言葉はひとかけらの好意も持っていないやつに対する言葉だ。
行為じゃない。気持ちの問題だ。それほど、嫌われているということだ。
そんなことは分かっていたはずなのに、今までは分かっているつもりになっていただけなんだと思った。
最後、智也はすがるような瞳を見せた。
――――そうだよな
哲平にばらされることを恐れたのだろうと思う。
秘密を隠すために何をされても反抗しなかった。それこそ、自分の体を投げ出していた。それも、もう限界だったのかもしれない。
欲しいと言われて、有頂天になっていた。
こいつに自分は必要だなんて妄想を抱いていた。
体だけじゃなくて、そのうち心も手に入れられるかもしれない、なんて思いもした。
「ばか、だよな」
天国から地獄ってのはこんなことを言うんだろうなと遼平は思った。
夕飯を食べる気にはならなかった。それは、疲れているからと誤魔化した。
ふと時計を見ると、午後の九時を過ぎていた。
遼平は携帯を取ると智也へラインを繋いだ。
ラインはすぐに繋がった。
「もしもし」
聞こえてきた声はすごく弱弱しいもので、小さな子が怯えているようにさえ聞こえた。
――――もういいよ
心の中で呟く。
「俺」
それは番号から分かってるはずだ。
「遼平さん――――」
答えてきた言葉は途切れた。
「安心していいよ。哲平には言わない」
それが智也は一番欲しい言葉のはずだ。
「りょう……」
智也がくぐもったような声を出す。
「もう、終わりにするよ。哲平に醜態は見せられないし」
それは自分から誘導したことだった。なぜあんなこと言ったのか自分でも分からない。自分の首をしめることは分かっていても、言葉が勝手にでていった。
「あ……」
ラインから零れてくる智也の声は泣き声にも聞こえた。
ほっとした?
「ごめんな、今まで」
そんな言葉で償えるとは思えなくても、他に言える言葉は無かった。
「り――――」
智也の声を遮るように、遼平はラインを切った。電源を切ると、携帯を接続部からばきっと割って、ゴミ箱へ放った。
――もう、これでお終い
「ごめんな」
遼平は宙に向かって、呟いた。
何度謝ってすむことじゃないと分かっている。けれどそれしか知らない。そして、自分にできるのはもう姿を見せないことだけだ。
今度こそ、本当に忘れるしかないなと遼平は思った。
一部・完
▽次からは智也視点になります。