物が散乱したままの実験室で、デールは椅子を固定してノインをそこに座らせた。
ノインの机に近づくと、床の染みが目に入る。
「何があったの?」
陸はデールを見た。
床に広がる血は何かがあったはずだった。
「何も」
「何もないはずはないよ」
「まあ、そうだな」
デールがゆっくり大きく息を吐いた。
「俺が実験室に入ったら、立ち上がったノインがそのまま倒れこんだ。ただ、それだけなのに、場所が悪かったんだ。丁度机の角に頭を打ち付けて泳いだ腕がグ
ラスを下に落とした。俺が駆け寄った時にはノインの意識は無かった。可哀想に。体ももう限界だったんだな」
デールがノインへ視線を向けた。
「デール、早く来て」
「ああ、すぐ終わるよ」
――――すぐ?
なんかちょっと癪だと陸は思った。帰ると言ったものの、嫌だと駄々をこねたくなってくる。このままデールはノインだけのものになってしまう。それが一番い
いのだと頭は理解しても気持ちにはくすぶるものがまだある。
「あれ?」
機械に電源を入れて立ちあげたデールが驚いたような声をあげた。
「何?」
「オプションがひとつ追加されてる」
「え?」
陸はデールが見ていた画面を覗き込んだ。
「時間を調整する、らしいな」
「それってどういうこと?」
「過去に時間を遡れば、向こうでの空白が少なくなる……ノインはこれをやっていたんだ」
「倒れるほど?」
「陸は早く帰りたがっていただろ? テストが返ってくるとか言ってただろ」
「そんなこと――――」
陸は言葉が詰まった。
「どうする?」
デールが顔を覗き込む。
「え?」
「オプションを外すこともできる。ノインを信じる? このオプションがない場合では実績もある。まあ、そう言っても実際に見たわけじゃないから実績と言え
るかどうかは分からないけれど、ノインが作ったスキャナーで正常に送信されたと結果はでている」
どうする? と聞かれても陸は困った。
じゃあ、予想通りの動きをしなかったらどうなるのか、と聞いて答えてくれる人はいない。ノインはつまらなそうな顔をして、デールを見ている。
けれど、答えはださなければいけない。
「ノインを信じるよ」
陸はデールを見た。
「でも、ノインはお前のことを……」
デールは言いづらそうに、目を伏せた。
「うん。それでも信じる」
「そうか」
デールがほっとしたように顔をあげた。
「デールならどうする? ノインを信じる?」
「俺? 俺なら信じるよ」
「じゃあ、いいじゃないか。そんな不安そうな声出さないでよ」
「そうだな」
デールが笑った。つられて陸も笑った。
最後に笑顔を見ることができて良かった、と陸は思った。
移動装置は直径二メートルほどの天秤があるだけのものだった。
「この上に乗ればいいの?」
デールが頷くのを見て、陸は足を乗せた。
「ねえ」
最後にひとつだけ陸は気になったことがあった。
「ん?」
デールが顔を向ける。
「いいの? こんな勝手なことをして」
勝手に逃がしたことになる。その責任はどうなるのだろう。
「上はこれを動かせるのはノインだけだと思っている。もうこれを動かせるやつはいないと思っているんだよ。だから、陸をここに閉じ込めたんだ。一番安全な
ところだからね。俺は知らないって言うだけだし、その前に問題になる頃には俺達はここには居ないよ。陸を送ったらノインとここを出る」
「そう……」
少し切なくなった。
「ああ」
「幸せになってね、デール」
それが一番の望みだ。
「陸もな」
「うん。がんばってデールを探すよ」
「ああ、待ってる」
「うん。待ってて」
きっとデールが自分の世界にもいると信じたい。
少しの間見詰め合っていた。けれど、時間はあまりない。デール達も早くここを出た方がいいのだろうと思う。
「じゃあね、デール」
「ああ」
「ノインに、ありがとうって伝えて」
「分かった」
「……いいよ。デール」
なごりは尽きないけれど、いつかは幕を引かなければいけない。
「ああ」
デールの指が動くのが見えた。
目の前が掠れていって、自分が光になった気がした。急に回りが真っ暗になって、暗闇を自分が細かい粒子になって飛んでいるような気がする。
どこまで行くのだろう。
そう思っていたら微かな光りが見えてきて、風を感じるような気がした。
意識はすっと落ちていった。
「陸?!」
すっとんきょうな声がして目を開けると、陸は自分のベッドの上で大の字になって寝ていた。
目の前の母親は瞳が零れるんじゃないかと思えるほど、大きく目を見開いていて、口元に当てた手は微かに震えていた。
「え、陸くん? 」
居間の方から声がして、でかい影が近づいてくる。
「刑事さん、陸が陸が……」
母は震える声で叫んでいた。
でかい影が部屋に入ってきて、その姿に陸は息が止まった。
――――デール
胸が熱くなってくる。
こんなにすぐに会えるとは思わなかった。
PS.
後期中間テストの現代国語の時間。
「ぎゃ」
陸の後ろのやつが突然声をあげた。
思わず陸が振り向くと、後ろのやつは驚いた顔にめがねが半分ずり下がっている。
陸はその眼鏡に見覚えがあった。
「どうした」
教師が駆け寄ってきた。
「あ、眼鏡が……」
「眼鏡がどうした」
「無くなったと思ってたのに」
教師は手を腰にあてわざとらしく大きく息を吐くと、「良かったな」と一言言って教壇へ戻っていた。
もしかして。
そう思って陸が前に向きなおすと、机にはでかい消しゴムが二つ並んでいた。
Fin.