切なさと苦しさを忘れたくて、陸は言葉を覚えることに集中した。
自分用の辞書なんて誰も作ってくれなくて、自分で作るしかなかった。手書きでひとつづつ、紙に書いていく。紙を重ねた厚さは五センチほどになった。
ノインが作った翻訳機を見ながら、えらい違いだなと思う。
優秀な翻訳機は悩む必要もなく、答えをくれる。
「両方、デールの声ならいいのに……」
ふとぼやきがでる。
ノインの声を聞いてノインを思う。隠れて会っていることに罪悪感を覚える。
「だって、好きなんだ」
それで全てを許してもらえるとは思わない。けれど、気持ちは自分でさえも自由にはできない。
日にほんの一時間弱の時間。
それだけの時間デールと一緒に過ごすことができる。仕事の帰りに寄ってくれるから時間はまちまちで、朝早かったり、夜遅かったり、まっ昼間だったり。デー
ルがいつ来てもいいように、食事は急いで済ますか、売店でスナックや弁当の類を買うようになった。
デールが来た時のために、飲み物と軽いスナックも用意するようになった。
テレビやゲームや娯楽のための本もない。そんな生活で、デールと過ごす時間だけが陸の楽しみだった。
二週間の期限が過ぎた後、陸の元には本が増えた。
三センチ位の厚みがある本が三冊。それをまたニ週間で読んで理解しろと言う。
ぱらぱらとめくってみると世界の全体図や組織、システムや規律が書いてあるようだった。この国は巨大なユニオンに組み込まれていた。世界には大きく分け
て四つのユニオンがあり、それに属さない国もいくつかある。
全てを統一することはどこでも難しいらしい。
「今日は何をした?」
デールが耳元で囁く。
「ん、相変わらずだよ。本を読んで組織を覚えろって言われたって、山ほどあるんだからそう簡単には覚えられないよ」
「そんなの斜め読みしとけばいい。自分が繋がっているところだけ覚えれば十分だ」
頭をくしゃっと撫でてくれる。
子供扱いは相変わらずで、キスをねだっても、はじめの頃みたいに深いキスはしてくれなくなった。
「もっとして」
ねだっても、軽く笑ってしてくれるのは優しいキスだけだった。
「もっと」
そう言って縋ったら、胸にぎゅっと頭を抱きこまれた。
「我慢……できなくなるだろ」
辛そうに聞こえたデールの声が切なかった。
我慢なんてしなくていい――――そう言いたい気持ちを陸はぐっと抑えた。デールを困らせて、もう来てくれなくなるのは嫌だった。
「明日は休みだから、来れない」
名残惜しそうに頭を撫でてくれる。
「うん。あさっては来てくれるでしょう?」
毎日会いたいけれど、それが無理なことは分かっていた。
「ああ」
デールが頷いてくれる。
「待ってるから」
せめてそれだけは分かって欲しかった。
いつものように、部屋のドアを少し開けて帰るデールの後ろ姿を見ていた。
あまりドアを開けていてはいけないとデールに言われた。鍵もちゃんとかけておくようにも言われた。
「なぜ?」と聞いた質問にデールは軽く笑いながら、「どこだってそうだろ?」と言った。
「陸が心配だから」
そう言われたら守るしかない。
デールが見えなくなると、陸はドアを閉めて鍵をかけた。
明日は会えない。そうデールは言った。
なのに。
「陸っ!」
昼すぎ、けたたましいノックの音とともに、苦しげなデールの声が聞こえた。
あわてて陸がドアを開けると、転がり込むように入ってきたデールはベッドの縁に腰掛けて頭を抱えた。
「何があったの?」
陸は奥からグラスに一杯水を持ってきて、デールに差し出した。
デールは顔を歪めてかぶりをふると、また、頭を抱えた。
「デール?」
陸はグラスをテーブルに置くと、デールの前に屈んで顔を覗きこんだ。
「陸」
急に抱きしめられた、と思ったらそれはすごく強い力で、胸が潰れるんじゃないかと陸は思った。
「デー……ル、くる、しい」
声を出すことさえ容易にはできなかった。
ふっと腕が緩んで、デールが肩口に顔を埋める。耳元で苦しげなの息遣いが聞こえた。
「デール?」
訳が分からないまま、陸はデールの頭を抱きこんだ。
何かあって、それで自分のところへ来てくれたなら、嬉しいと思う。原因はひとつしか考えられなかった。
「ノインと何かあったの?」
デールがこれだけ取り乱す原因を陸はそれしか思いつかなかった。