誰も助けてくれる人はいなかった。

「はぁ……」
陸はため息をつくと、部屋を見回した。
ふとテーブルの上にある分厚い本が目にとまった。
テーブルまで行って、ぱらぱらとめくってみたけれど、さっぱり分からない記号が並んでいる。脇においてある紙をぱらぱらめくっていたら分かるものが一枚 あった。
ひらがなの五十音表なんて小学校以来だった。
隣に並べられている記号は本の中に見たものだった。
――――対応表?
そう白衣を着たやつは言っていた。

文字が一対一に対応している?
そう予想するしかない。
翻訳機と言っても、こちらの言葉で言ったものを日本語にしてくれるだけだ。
「あ、でも」
会話できるということはどこかで音を拾っていて、それをこちらの言葉に直しているはずだった。
「ここかな?」
イヤーパッドの裏に細かい穴が空いていた。
「こんにちは?」
陸がそこに向かって声をかけると、イヤーパッドから声が漏れてくる。その声はノインのものだった。
「あ、そう言えば」
陸はマイクを口元へもってきた。
「陸?」
マイクに向かって言うと、
「陸?」
声はデールのものになった。
「陸?」
もう一度言うと
「陸?」
デールの声が答えてくれる。
「あ……」
ひとつ思いついたことがあった。
今度はイヤーパッドの裏の小さい穴に向かって
「好きだよ」
そう陸は呟いた。
聞こえた言葉を頭の中で繰り返して、マイクに向かって口にした。
「好きだよ」
聞こえるのはデールの声だった。
「デール……」
「デール……」
ただの独り言なのに、機械はそれにも答えてくれた。
デールが自分で自分の名前を言っているみたいに聞こえて、陸は自然に頬が緩んだ。
デールに言って欲しい言葉はひとつで。
その言葉をマイクに向かって呟くと、
「好きだよ」
デールが言ってくれる。
本人が言っているわけじゃないと分かっていても、胸が熱くなってきて陸はヘッドホンを抱きしめた。
「デール……」
愛しい人の存在をそこに感じた。



部屋が変わってから数日が過ぎた。
陸が部屋を出るのは食事の時だけだった。食事だけのために違う棟まで行かなければならず、目的の場所まで歩いて十五分ほどかかった。建物の地下に食堂と売 店があり売店には日用品と食品の類が売られていて大概のものはここで調達できた。
食事のために外へ出る以外陸は辞書片手に訳がわからない言葉と向き合っていた。それも、キッカケが見つかれば道は見えてきてすり合わせの地道な作業にな る。簡単な単語を使って短い文なら作れるようになった。
デールの声を聞きながらできるから、それは救いだった。実体はないけれど、陸の脳裏には笑顔のデールがいた。
覚えた言葉をデールが言ってくれた。



昼食の後、陸はマキに買いたいものがあることを告げた。
飲み水がなかったし、夜何か欲しくなったときに口にするものも欲しかった。部屋の脇にあるドアの向こうには小さなキッチンもあって小さな冷蔵庫もあった。
――――何にしよう
数少ない部屋を出ることができる時間だったし急ぐことはないから、陸は商品の置いてある棚をゆっくり見ていった。
「陸?」
背後から声がして陸が振り向くと、デールが驚いた顔をして立っていた。仕事中なのかスーツを着ていて、見慣れているのはラフな上着とズボンだったからそれ は新鮮に感じた。まさかデールと会えるとは思っていなくて、陸はそのまま固まってしまった。
「陸、お前」
驚きそのまま目を見開いて、デールは陸に近づいて来る。
「お前、帰ったんじゃなかったのか? 」
言って、はっとしたようにデールは口を閉じた。
「知らなかったのか?」
陸の脇に立っていたマキがデールに向かって言う。
「何のことだ」
デールはマキに向かって険しい顔をした。
「陸には教育を受けてもらうことになった」
「何の?」
「国のシステムとか、やってもらうこととか」
「やってもらうこと?」
「ただ、返したんじゃつまらないだろ? 働いてもらうんだよ」
――――え?
マキの言葉は陸にも初耳だった。
「何をさせるつもりなんだ」
「最初は単なる連絡係だろう。その後は様子を見てからだ」
マキの言葉に答えるようにデールは大きく息を吐いて宙を見上げた。そして、陸を見て何か言いたげに口を開きかけて、何かを考えるように視線を彷徨わせる。
「デール、心配しないで」
陸が声をかけると、デールが驚いた顔で見てきた。
「お前、言葉……」
「少しだけ」
「分かるのか?」
「うん」
デールの声を聞きながら覚えた言葉だった。
「今、お前は、どこに、いるんだ」
デールの言葉を区切りながらゆっくり言ってくれた。
「それは――――」
どう説明していいか分からなかった。
「57棟の三階にいる」
代わりにマキが答えた。
「そこは……」
「そうだよ。収容棟だ。十分だろ?」
デールが顔を歪めたけれど、陸にはなぜか分からなかった。
「何か、困っていることは、ないか?」
デールがマキを振り切るように言う。
「今は何も……」
陸はかぶりを振った。食事もちゃんともらえるし、シャワーも好きなときに浴びられる。時間自体全て自由で、ただ不満といえば自由に外へでられないことぐら いだった。
「デール、お前がこいつの世話係になるか? 俺はいつでも代わってやるよ」
マキが意味ありげに笑った。
「そんなことできるわけないだろ」
デールが吐き捨てるように言う。
「上のやつは喜ぶんじゃないの? こいつがノインみたいに何でも言うことを聞くようになったら」
嫌みったらしい言葉に陸は嫌悪感を覚えた。
けれど、マキと向かい合うデールは何も反論しなかった。
「陸の部屋はセキュリティがかかっているのか?」
デールが視線を伏せ、マキに訊く。
「何も。右も左も分からないところで逃げ出すことなんてできないだろ。ちゃんと飯は与えてるし、よっぽどの馬鹿じゃなきゃ大人しくしていた方がいいことは 分かるだろ」
棘がある言葉に陸は気持ちが暗くなった。そう思われていたんだ、と思った。
「早くしてくれないかな。俺も暇なわけじゃないんだ」
今度は陸に向かって冷たい声をかける。
「う、うん」
陸は返事をすると、適当に手に取って無人式のレジへ品物を通した。カードを最後に入れればそれで清算は終わる。
「じゃあな」
マキがデールへ手をあげる。早くと促されて仕方なく陸は足を前に出した。

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