一人で部屋に残されて、陸は寂しさに体を締め付けられるように感じた。
デールが来るまでは平気だったはずなのに孤独感が胸を占める。腕は自然に自分を抱きしめていた。
デールの腕の中は温かかった。体ごと全部包んでくれた気がした。
「ずるいよ」
愚痴しかでない。
減るもんじゃないんだから、少しぐらい分けてくれてもいいのにと思う。
けれど。
自分はこの世界のものじゃない。デールはノインのものなんだと思った。
どれほど日にちが経ったか分からなかった。部屋の中に転がっていて、お腹がすいたら食事して、気が向いたらジムで動いて、ただ時間が過ぎていく。
ノインの研究がどこまで進んでいるのかは分からなかった。もう呼ばれることもなくなっていた。
その中でも嬉しいことは、デールが来る度に甘いものをくれることだった。
何も言わずそっとドアを開けて小さな包みをドアの脇に置いていってくれる。
飴だったりチョコだったりマシュマロだったりクッキーだったり。
声をかけてくれなくなったのは、ノインを気遣ってなのだろうと思った。
小さな宝物は日に日に増えていった。
特に甘いものが好きだったわけではないけれど、辛いときひとつの飴玉に胸の奥がほんのり温かくなった。
珍しくドアがノックされて、陸がドアを開けるとデールが立っていた。ただ、デールはヘッドホンはつけていなかった。それでは話ができない。ノインに見つ
かったらマズイんじゃないかと思ったけれど陸はそれを伝えることさえできなかった。
デールも分かっているだろうにと思う。
どうしたらいいのか分からなくて、何も言えぬまま陸はデールを見つめていた。
すると、デールは小さく笑った。
「陸」
名前を呼ぶと付いて来いというように手招きした。
いいのかな、と陸は思ったけれど言葉は通じないから従うしかない。
デールが実験室のドアを開け中へ入るように促す。陸にとっては久しぶりの実験室だった。物が雑然と置かれているのは変わらない。実験室の奥の机にノインは
いつもように座っていた。
「陸」
陸に気がついたように振り返ったノインは陸に向かって笑った。
――――え?
突然の変化に陸は戸惑った。
「あ……」
何と言えばいいのか言葉がない。
「陸を元の世界へ返してあげられるよ」
「え? 」
寝耳に水とはこのことだ、と思った。一年はかかると言っていた。その半分ほどの時間しか過ぎていない。
「あんまり喜ばないんだね。喜んでくれると思ったのに」
「あ、嬉しい、けど、だって、突然で」
喜びより驚きが大きかった。
「陸のおかげで早く進んだからだよ」
ノインは嬉しそうだった。
「無機物はもう全て元に戻した」
「え?」
陸は移動させたものを入れてあった箱に駆け寄って中を覗いた。中は空だった。姉が大事にしていたポスターもいかがわしいDVDも元の場所に戻されたらし
い。
「だから、次は陸だよ」
嬉しいはずなのに陸は素直に喜べずにいた。いなかった数ヶ月で自分はどういうことになっていたのだろうという不安が急に頭をよぎる。そして、戻るというこ
とはデールと別れるということだと思った。
「陸を戻す承認はとった。ただ、少し調べたいことがあるから実際に戻すのは待って欲しいとのことだけど、早く陸に知らせたくて」
ノインは嬉しくてしかたないといった様子だった。
やっかいものを追い出せるのだから、それも道理だろうと思う。成果をあげた今、デールと心置きなく過ごせるようになるのかもしれない。
「陸、今までごめん。でも、もう少しで帰れるから」
「……うん」
喜ぶべきは自分のはずだ。なのに、陸の胸の中は不安とか切なさばかりが占めていた。
「じゃあ、それだけだから。部屋に戻っていいよ」
くるっとノインは後ろを向いて机に向かった。すぐに目の前の画面を見ながらキーボードを打ち始める。
「デール」
ノインが後ろ向きでデールを呼ぶと何かを言った。短い言葉で答えたデールは、寂しげに陸を見た。
小さく唇が動いて、それは「ごめん」と言っているように陸には見えた。
デールが陸の使う言葉を知るはずはない。けれど、自分が言った言葉が翻訳されて出た言葉を聞いてはいるから、短い単語だけなら覚えたのかもしれないと陸は
思った。
ごめん――――それは、送ってはいけないという意味だと思う。
ゆるくかぶりをふると、陸は実験室をでた。
元の世界へ帰れる。それは、きっと良いことなのだろうと思う。
ここに居て、陸がすべきことは何もない。
何もなく数日を過ごし、ドアをノックする音がして陸が開けると見たこともない人が二人立っていた。白衣を来た結構年を取っているだろうごつい顔の男が一人
と、黒いスーツのようなものを着た若い男だった。
「部屋を移動するから用意しなさい」
白衣を着てヘッドホンをつけた男からでた声はデールのものだった。
「え、用意? 」
何も話は聞いていなかった。
「何もないならそのままでいい。着替えならこちらでも用意できる」
「え、あ、ちょっと待って」
腕を取られそうになって、陸は逃れるように部屋の奥へ行った。
自分はこの部屋を出ることになったらしい。
なぜ? という問いには答えてくれそうもなかった。
陸は借りているノインの衣類と身の回りの物とデールのもらった物を適当に袋に入れた。
「あの、用意はできましたけど、ノインには何も言わなくていいんですか?」
元の世界へ戻れるはずだった。なんで今ごろ部屋を移動しなきゃいけないのか分からない。
「ノインには話を通してある。こちらへ」
陸は白衣の男に腕を持たれて廊下へ引っ張られた。そのまま入り口の方へ行こうとする。
「あ、あのデールは?」
何も言わずにもうデールと会えなくなるとしたらそれは嫌だと思った。
「デールは今仕事についていてここにはいない」
そんなことは分かっていた。ただ、答えから会わせてもらえないようだと陸は感じた。ノインのスタッフの一人であるデールに会わなければいけない用件など思
いつかない。
「僕はどこへ?」
この部屋はここへ来てからほとんどの時間を過ごした場所だった。
「来れば分かる」
若い男が陸から陸の持っていた袋を取り上げようとした。
「いい。これは自分で持つ」
陸が袋をぎゅっと抱きしめたら、そいつは怪訝そうな顔をした。取り上げられるのは嫌だった。腕を引かれるまま後ろを見ても、誰もいなかった。ノインはいる
はずなのに出てきてはくれないらしい。
初めて部屋を出るときは期待もあった。けれど、今は不安しかなかった。どんな目的があって連れていかれるのかも分からない。
ノインの部屋がある棟を出て構内を走るバスに乗り一度も腕を離してもらえないまま着いたところは高いビルの小さな部屋だった。セキュリティのかかっていそ
うなところは通らなかった。だから、出入りは自由なのだろうと推測できた。
部屋へ入ると突き放すように陸はやっと腕を離してもらえた。白衣の男はまるで汚いものに触れたかのように手をニ三度叩いた。握られていた陸の腕には、赤く
指の色がついていた。
部屋は窓がひとつとベッドと小さなクローゼットとテーブルがあるだけのものだった。脇にドアがひとつあるけれど、トイレとかシャワールームとかそんなもの
だろうと思う。前の部屋もそうだった。
テーブルの上には幅が十センチくらいありそうな分厚い本が二冊と紙が何枚かあった。
男は白衣のポケットから出したカードを陸に渡した。
「そのカードを出せば、物の購入、食堂の利用ができる。とりあえず、ニ週間で言語を習得しなさい。全てはそれからだ」
「ち、ちょっと待って、どうやって」
先生なんているはずもなく、テキストなんてあるわけがない。
「文字の対応表と辞書とこの翻訳機をおいていく。われわれにできるのはそこまでだ。あとは自分で好きなように習得してくれればいい」
「は?」
「ここにいるマキがキミの警備を担当する。食事の時はマキが迎えに来る。一人では出歩かないように。このインターホンで呼べばマキがいる部屋へ繋がる」
その男は入り口の脇にあるインターホンらしきものを指さした。
「散歩とかも一人ではだめってこと?」
「この部屋を出るとき全てだ。他に質問は?」
「あ、今はない……です」
突然のことで何を聞いていいか分からなかった。
「後で何かあればマキに言いなさい」
部屋の中央にあるテーブルまで来て、男はヘッドホンを取るとテーブルの上に置いた。入り口まで戻って軽く頭を下げたその男の後ろでマキと言われた男も頭を
下げた。
二人はそのまま部屋を出ていきドアは閉められた。
マキの年はデールと同じくらいだと思った。涼しげな目元に冷たい印象をもった。一度怪訝そうな表情をしただけで後は冷たい表情を崩さなかった。
「マキに言えって言ったって、言葉なんか分からないよ……」
陸は所在なく窓際まで行って下を見下ろした。ノインの部屋よりも地面が近かった。
「どうなっちゃうんだろ……」
今までいた部屋が恋しかった。
たとえ冷たくされてもノインがいることですくわれているところもあるんだと思った。あそこでは、デールも来てくれた。
今度こそ一人きりになってしまった。
「デール……」
泣きそうになる。
「戻してくれるって言ったのに」
自分の声が部屋の中で虚しく響く。誰も聞いてくれはしない。答えてくれるのは静けさだった。