着替えて、といってもパジャマから長袖のTシャツとパンツに替えるだけだから、ものの三分とかからなかった。
早く帰りたいのなら時間は大切にしないといけないとノインは言った。
だからと言って、何がどうなろうと一年と言っているものが一日にはならない気がする。だからといって、うだうだしていても始まらない。
だいたい、まだ半信半疑だ。
まだ、夢の中なんじゃないかと陸は疑っていたりした。
あの消しゴムが全ての発端だ。あれさえ、無くならなければこんなことにはならなかったんじゃないかとさえ思える。
ただ、夢ならいつか覚めるのだから、言われる通りするのがいいのだろう。
袖を通したノインの服は陸の体にぴったりあった。
収縮性のある布を使っているのだろう。指で伸ばすとゴムのように伸びる。そのくせ、肌触りは綿のようだった。
服の代わりに着ていたパジャマを籠に放ると、陸は部屋をでた。
そこで、人に会った。
銀色のドアだと言われるものの方から歩いてくる。
「あ……」
さっきは確かに誰もいなかったはずだった。動きそうもない銀色の壁はノインの言う通りドアらしい。
十センチ以上は背が高く体もがっしりしているように見えたやつは、陸を見て口元を緩めた。
初め厳しげにも見えた顔はふっと緩んで優しくなる。何か分からない言葉を言って、はっとしたような顔をして、また笑った。
挨拶のように手を軽くあげると、実験室らしい部屋のドアを開けて、陸を手招きする。自分もそこへ行こうと思ったのだから、陸は促されるまま部屋へ入った。
――――仲間?
と思い、まあ、そうなんだろうと思った。ノインが言ったスタッフの一人なのだろう。
「あ、こっちに来て」
そう言ったノインの声だけが聞こえた。
声を頼りに、陸は奥へ進んだ。大きな机の上には、ガラクタとしか思えないようなものや、円形の台座や、細い管を繋げて長く延びているものや、箱状のもの
や、何か分からないものが並んでいた。
部屋の奥にある机にノインは座っていた。
「あ……」
ノインが小さな声をあげると、嬉しそうに笑った。視線は陸の後ろへ向けられていて、それは、さっき廊下で会ったやつなのだろうと思う。
ノインまで、何かわからない言葉を話し出す。
――――それが、ここの言葉?
陸の後ろにいるやつが答えたことで、それは当たりなのだろうと思った。
「紹介しておくよ」
ノインが言う。
「陸の後ろにいるのは、デールと言って僕のスタッフの一人だよ」
考えは当たったと陸は思った。
陸が後ろを向くとデールが笑った。知らないやつなのに、ほっとするような温かい笑顔だった。
ノインの訳が分からない言葉が頭上を飛んでいく。デールは視線をノインに向けて、また陸へ戻す。
そして。
「りく? 」
そう言って、デールは首を傾げた。
それは、きっと名前のことを言ったのだろうと思ったから陸は頷いた。言葉はきっと通じない。仕草が通じるかどうかは疑問だけれど、軽く数回頷いたデールを
見ると、分かってもらえたようだと思った。
パラレルワールドといったノインの言葉が自分の中で一歩現実に近づいた。
「陸、見て欲しいものがあるんだ」
今度は分かる言葉が耳の中へ入ってきた。
陸が振り向いてノインの方を見ると、ノインが手招きをする。
ノインに従うしか無さそうだと陸は思った。唯一言葉が通じるのはノインらしい。そして、たぶん、元の世界へ返すことができるのもノインだけなのだろうだと
思う。
明日やあさっては無理にしても、空調が効いていて過ごしやすそうな空間ではあっても、こんな狭い限られた空間に閉じ込められているのは嫌だ。
幸いノインは悪い人ではなさそうだった。
自分と同じ顔っていうのがなんか変な感じではあっても、見慣れているものだからほっとするところもある。
絶対教師とは思えない眼光鋭い強面の数学の笹井みたいな顔よりはずっといい。
陸がノインの方へ進むと、デールも後ろをついてくる。
真面目な顔は怖そうだけれど笑った顔は優しかった。自分は恵まれていると思うことにしようと陸は思った。
そうでも思わなきゃ、やってられない。
ノインが座っていた椅子をくるっと回すと、脇の大きな箱を指差した。
「ちょっと中を見て」
言われた通り、陸は腰ほどの高さのある箱の中に近づいてちらっと中を覗いた。
真っ先に視界の中に入ってきたもので、陸の体が固まった。
袋に入った茶色の塊がある。
こんなところにあった。母さんはぼけたわけじゃなかったんだ、と思った。
『あんぱん』と書いてあるものが、この世界のものだとは思えない。
そっと手を伸ばしてあんぱんを手に取ると、まだ柔らかかった。
「それも、陸の? 」
背後から問い掛けられた。
「これは……」
言いかけて、後は言葉にならなかった。
――――母さん
見つけたよ。でも、持って返ってあげられなさそうだ。
「ノイン、これもらっていい? 」
生ものだから保存なんてできない。
「成分を分析したいから、欠片さえあればいいよ」
寛大な言葉に感謝した。
「これ、生ものだから、今食べていい? 」
このまま腐ってしまうのは、嫌だった。
「そういえば、食事まだだね。それ、食べ物なの? 」
ノインは相変わらず、暢気だ。
「うん。早く食べないと、だめになっちゃうんだ」
ノインに背を向けたまま、陸は答えた。頬を熱いものが落ちていく。
こんな姿を見られたくない。
「じゃあ、そっちの椅子にでも座って食べるといいよ」
ノインが答えてくれた後で、デールが何か言っていた。それに、ノインが何か答えている。
自分には分からない言葉。そのことにひとりぼっちになってしまったような疎外感を感じる。
陸は、ノインに示された椅子に腰を下ろすと、袋を破って一口かじった。
餡が端まで入っていると母さんがお気に入りのトラやのあんぱんは、いつも甘いと思うのに、今まで食べたものの中で一番美味しく感じた。
――――ごめん、あの時のあんぱん僕が食べたんだ
帰ったら母さんにそう言おうと陸は思った。