笑っていた大輔が急に真面目な顔になって、少し近づいてきた気がした。
後で、と言った大輔が約束を守ってくれるのかなと陸は思って、だから、目を閉じかけたのに、部屋の外からの足音が聞こえてきた。
大輔の視線が逸らされて、突然勢いよくドアが開く音がした。
そして、
「出前、きたわよ」
大塚さんの声が聞こえた。
かちゃと食器が軽くぶつかった音がして、
「ここに置いておくわね」
そう続けた大塚さんの言葉に
「ああ」
と大輔は答えていた。
泣いた顔を見られたくなくて陸が前を向いたまま顔を伏せていると、
「話は進んでる?」
大塚さんが聞いてくる。
「ああ、もう終わった」
そう大輔は答えてくれた。
「え、あ、そう。それで?」
大塚さんの声は意外そうだった。
「別に何もないさ。香織の誤解だ」
「えっ? だって陸くんが」
今度は驚いたような声を出す。
「お互いに誤解していたんだ。でも、俺も考えていたことの結論がでた。助かったよ、香織」
「え、あ、そうですか」
どこか納得できないといった返事を大塚さんがする。大塚さんにしてみれば確実だと思っていた予想が外れてがっかりしたのだろうとは思った。
「それは俺が出すから。香織もまだなら、俺につけてくれていい」
大輔が後ろを指差した。
「え、じゃあ夕飯でも?」
大塚さんがうかがうような声を出す。
「いいよ」
「やった、ご馳走様」
大塚さんの声のトーンが一段変わった。
「ああ」
大輔が頷くと、
「じゃあ、交通課にいますから終わったら呼んでください」
そう言って、大塚さんは部屋から出て行った。がっかりした分のもとはとったらしい。去っていく足音は軽やかそうだった。
「腹減っただろ?」
大輔が聞いてくる。
「ん、減ったかも」
泣いてすっきりした気もした。
後ろを振り向くと、入り口を入ってすぐのついたての後ろに小さな応接セットがあり、そこに丼とお新香とおわんにお茶が入った湯のみが二つづつ置いてあっ
た。
「何を頼んだんだ?」
応接セットのソファに座り、大輔が丼の蓋を開けながら見てくる。
「カツ丼、大塚さんが奢ってくれるって言ったんだ」
なぜそのメニューなのかまでは、その時は気にならなかった。大塚さんの言葉どおり、丼の中には卵にとじられたトンカツが湯気を立てていた。
「おいしそう」
お腹がきゅっとへこんだ。
「またなんで、香織はお前のところへ行ったんだ?」
大輔が割り箸を割りながら聞いてくる。
「大輔さんが使いものにならないから助けてくれって」
要約すればそうなのだと思う。
「はあ?」
大輔が驚いた声と共に、顔をあげた。
「簡単な誤字脱字を見過ごしたり、計算間違えしたり」
「そんなのは――」
大輔が口ごもる。
「一日中、僕の名前だけ入った調書をぼんやり見ながらため息ついてるって」
信じられないけれど、大塚さんはそう言っていた。
「そんなのは、そうそうないだろ。会議だの呼ばれたりだの、暇な時間がそうそうあるわけじゃない」
「それは知らないけど……」
そう聞いただけだ。
「あ、いや……」
大輔が頭に手をやると、顔を伏せた。
「みっともないことを知られたな」
頭をかく。
「なんで? 僕は嬉しかった。大輔さんと会ってちゃんと話をしようと思えたのも、そんな話を聞いたからだよ。大輔さんに会うのはすごく怖かったから」
そう、すごく。
「どうしてだ?」
大輔は不思議そうな顔をした。
「だって、もう僕のことなんて忘れちゃったのかなって思えたら、悲しくてきっと立ってさえいられない」
この人だけには自分の存在を認めて欲しかった。
少し見詰め合っていて、
「冷める前に食べろ」
大輔が丼を指差す。
「うん」
陸は手を合わせると割り箸を持った。
「美味しいか?」
大輔に聞かれて、
「うん」
頷いたけれど、
「美味くないのか?」
大輔が怪訝そうな顔をする。少しの表情の変化を見られたらしい。
「大輔さんが作ってくれたものが食べたいって、思っただけ」
段々、我がままになってくる自分がいた。
「じゃあ、今度作ってやるよ」
大輔が仕方ないな、といった感じで言う。
「ホント?」
それは、また前のように付き合ってくれるということなのかと思った。
「ただ、少し時間をくれないか?」
大輔が視線を落とす。
「どうして?」
喜んだ気持ちはそのまま不安になった。
「少し気持ちを整理したい。勢いで答えを出したくないんだ。お前が話してくれたことは嬉しかったし気持ちも分かったつもりだ」
「なら、どうして?」
分かってくれたと思ったのに、不安が広がる。
「そんな顔するなよ。お前が悲しそうな顔をすると俺はどうしたいいのか分からなくなる」
「だって、分かってくれたんでしょ? でも、僕の言うことが信じられない?」
これ以上はどうすればいいのか、分からない。
「信じられないのはお前じゃない、俺自身だ。俺が一番怖いのは、俺がお前を傷つけてしまうことだよ」
大輔が眉を顰める。
「そんなことないよ。大輔さんはいつも僕のこと考えてくれるじゃん」
傷つけることなんてことは考えられない。
「お前が見ているのは自分じゃないと知った時は、俺は感じる苛立ちをどうすることもできずにいた。俺はお前の傍にいたらだめだと思ったよ」
「やだよ、そんなの!」
陸は手に割り箸を握り締めていた。
「でもな、陸、今日陸に会ってひとつ分かったことがある。お
前が誰を好きでも、俺はお前がいいらしい」
大輔の視線が優しくなった。
「置いていこうとしたのに?」
またあの時と同じだと、身体が強張った。
「それがお前のためだと思ったからだ。だけど、立てはしても足は前に出なかったよ。お前が声をかけてくれたおかげでみっともない姿を晒さないで済んだ」
「そんなことないよ」
みっともない姿と言われても想像できない。
「ここしばらく何も手に付かなかったんだ。少し片付けさせてくれ」
「それから?」
その後は?
「お前はどうしたい?」
「前みたいに、大輔さんのアパート行ったり、一緒に遊びに行ったり、それから――」
その腕に抱いて欲しいと思う。
「お前の望むままに――完敗だよ、陸。お前には笑っていて欲しい」
「ホント? 絶対?」
笑っていればいいの?
「絶対だよ」
大輔が笑う。
――え?
思いがけない言葉をもらえて、陸は大輔を見つめた。
「お前が言ってきたことだ。そんなにびっくりすることないだろ?」
「だって」
絶対大輔の口からは聞けない言葉だと思っていた。
「だから、陸。笑ってくれ」
「そんな急に……できないよ」
簡単だと思ったのに、顔がひきつって巧く動かなかった。笑わなきゃと思っても、嬉しい気持ちが邪魔をしてくる。
「お前が笑顔を見せてくれるなら、俺はもうそれだけでいい」
「ホントに?」
それはきっとそんなに難しいことではなくて、大輔が傍に居てくれればできると思う。
「絶対だと、言っただろ?」
「うん」
頷きながら、陸は少し笑えた気がした。