試験二週間前になるとクラスの空気が変わる。それはいつものことだった。試験範囲が出てくるから授業の真剣みも増す。
塾で夜が遅いんだとぼやきながらいつも寝ているやつもこの時ばかりは眠そうな目をこすりながらノートを写していた。
「陸、どんな感じ?」
隆太郎が数学の教科書に書き込みながら聞いてくる。
「ぼちぼち、かな」
色々気になって身に入らなかったときもあったから、それが少し響いていた。
「そんな事言って、またダントツ一位かよ」
隆太郎がぼやく。
「いつの話だよ」
最近そんなことはない。
「中学の、いつだっけか?」
「まさか、一年の後期の中間テストのこと言ってるわけ?」
はるかかなた昔の話だ。
「いつでもいいさ」
自分から言い出したくせに、隆太郎は気のない返事をした。全教科隆太郎に勝ったのはその時限りだ。よっぽど悔しかったらしく、突然思い出したように言って
くる。
「僕より、あいつ気にしろよ」
陸は隣のクラスを示した。高校から入ってきたとんでもないやつがいた。
「いい、俺は陸に勝てれば」
隆太郎はかりかりと教科書に書き込んでいた。
つい半年前までは自分も隆太郎と同じだったと陸は思った。
女の子に興味があるわけでもなく、アイドルを追いかけるわけでもなく、与えられた環境が勉強さえしていればいいみたいなところがあって、ライバルの隆太郎
が
いて、隆太郎に勝てれば楽しかった。
でも、今は違う。心を占めるのは別のことで。
でも、成績が落ちたなんて知られたらきっとただでは済まない。
だから、試験勉強はやらざるを得ない。
けれど、それさえ終わったら――。
「全教科陸に勝ったら、冬休みはハワイだぜ」
隆太郎が得意げに言う。
「簡単には負けないよ」
隆太郎に返しながら、陸は、そっか、大輔さんに何かねだってみようかな、なんて気になった。
一位はちょっと難しいから学年で三位以内で許してもらって、そしてその中に入ったら何をしてもらおう――。
大輔の顔を思い浮かべるだけでどきどきしてきた。
試験さえ終われば――陸は抱きしめてくれる大輔の腕の感触が脳裏を過ぎった。
試験最終日最終科目。
陸が三回目の見直しを終えて時計を見ると、チャイムが鳴るまであとわずかだった。
家まで一度戻るのは時間の無駄に思えて着替えはバックに入れてきていた。ホームルームの後、すぐ飛び出して大輔のアパートへ行くつもりだった。
行く途中で少し買い物をして、と思う。連休を取ってくれた大輔は次に休みが取れるのは年明けだと言っていた。
だから、クリスマスも正月も一緒にやってしまえばいいじゃんと思っていた。
チャイムが鳴って、ため息やら歓声やらが上がると、教師が答案を後ろから回せと叫ぶ。
答案を集め終わった教師が出ていき、ノートや教科書を鞄を入れていると担任が教室に入ってきた。ホームルームとは名ばかりのお説教の時間があって、その後
掃除当番
は各所定位置に出向きその他は解散になる。
陸は席を立つと椅子を戻し掃除当番に運ばれていく机を縫うように教室を出ようとした。
「おい陸、どうだった?」
背中から隆太郎の声が追いかけてくる。
「ハワイは諦めておいた方がいいかもね」
陸は笑顔で返した。
「なんだよ」
眉を顰め苦々しい顔をした隆太郎に、
「じゃあね。今日は急ぐから」
手を振ると陸は足を速めた。
一分一秒が惜しい。早く大輔に会いたかった。
小さな丸いイチゴのケーキを駅前のケーキ屋で買って、その後でスーパーでお餅とビン入りの出汁をカゴに入れ、これだけじゃ寂しいかなと緑色の葉っぱも買っ
た。
アパートまでの道を歩きながらどきどきする気持ちと不安な気持ちが交互に顔を出す。
――大輔さん、待ってるかな
足は自然に速くなる。
階段を一気に上がりドアの前で一呼吸してインターホンを鳴らそうとしたら、ドアがカチャっと開いた。
「陸?」
大輔が顔を出す。
嬉しくて、陸は自然に口元が弛んだ。
「……よく分かったね」
ばっちりのタイミングだった。
「ああ、階段を上がる音が来たよって言ってたよ」
大輔が笑う。カーキ色のパーカーにジーパン姿の大輔は始めてで、それが新鮮に感じた。
「そんなわけないじゃん」
陸は顔が弛みっぱなしで戻らなかった。
「俺には分かるんだよ」
大輔が頭をくしゃっと撫でてくる。
通されるまま部屋に上がり、鞄や持っていた袋を床に落とすと、陸はそのまま大輔に飛びついた。
「会いたかった!」
今日は特別な日だった。
大輔はちゃんと受け止めてくれて、
「何か買ってきたのか?」
と聞いてきた。
「うん。クリスマスも正月もやってしまいたかったから」
もう、年が明けるまで会えないから。
「クリスマスと正月?」
「ケーキとお餅」
どっちも必要不可欠なものだ。
「明日、神社にお参りに行こう?」
初詣には早いけれど、遅いより早い方がいい気がする。
「陸……」
大輔がぎゅっと抱きしめてくる。陸はこの腕の中が何より好きだと思った。
少し抱きしめていてくれて、
「腹減ってるだろ?」
大輔が聞いてくる。
「ん。少しだけ」
胸がいっぱいで、お腹まで神経が回らない。
「今、作ってやるからな」
ぎゅっと一度強く抱きしめてくれて、その腕は離れていった。
「何を作ってくれるの?」
お昼ごはんの事は考えていなかった。
「あと、ソースを絡めるだけだからすぐできるよ」
大輔が背中越しに答えてくれる。
覗き込むと、茹で上がったパスタと、鍋にトマトベースのソースがあった。
「大輔さんが作ったの?」
この間、焼きうどんを作ってくれた時も驚いた。料理はしない人だと思っていた。
「最近は全然料理なんてしないから、味は保障しないけどな」
大輔が自嘲するように言う。
「どうして作ってくれる気になったの?」
この間から。
今日も食事は外に食べに行こうと言うと思っていた。
「どうしてかな?」
大輔がはぐらかすように言う。
「なんで?」
隠されると余計に知りたくなる。
「分からないのか?」
大輔が意外そうな顔をした。
「うん!」
陸はきっぱりと頷いた。
料理が好きだとは思わない。陸が知っている限り、冷蔵庫に入っていたのは飲み物とつまみぐらいだ。
大輔は顔を逸らすように後ろを向くと、鍋のかかったコンロに火をつけた。
「……お前を抱きたいと思った時に、周りを気にしなくていいだろ?」
大輔が背中を向けたまま答える。
――え?
陸は返事ができなかった。
「陸、ちゃんと責任は取ってくれよ」
大輔がぼやくように言う。
「うん!」
元気に返事して、大輔に飛びつきたかったけれど、残念ながらそれはできなかった。嬉しくて足が動かなくて、身体の力も抜けていくような気がした。
うん……うん、うん。
陸は心の中で何度も返事して、何度も頷いた。
背中を向けていた大輔にはきっと分からなくて、でも、それで良かった。
胸が熱くなって、こんなに幸せでいいのかなと思う。その気持ちを表す術はなくて、陸はただ大輔の背中を見つめていた。