そんなことないよ。
そう言いたかったのに、陸は言葉がでなかった。
「鍵ひとつ取り返せないなんて、情けないよな」
まるで独り言のように大輔は小さくぼやいた。
「……そうだよ」
陸は胸が熱くなってきた。大輔が落ち込んでいる気持ちが伝わってきて、自分のためにこれほど思ってくれているんだと思うと嬉しいような切ない気持ちにな
る。
「だな……」
大輔が視線を落とした。
「そんなんじゃ、僕に文句なんて言えないよね」
初めて弱みを晒してくれたと思った。いつも数段上から見られていて自分はそこまで上がれない、そう思っていた大輔が身近に感じた。
「そういうことになるか……」
大輔が力なく呟く。
「そうだよ」
陸は立ち上がると、大輔の横に立って肩に手を置いた。肩に置いた手を大輔が握ってくる。いつもは暖かい手が今日は冷たかった。
「大輔さん?」
呼ぶとゆっくり顔を向けてくれた。そっと唇を合わせると大輔の身体がぴくっと震えたのを感じた。
「陸?」
大輔が怪訝そうな声を出す。
「大好きだよ」
陸は耳元で囁いた。
早紀だろうと誰だろうと絶対誰にも渡したくない。
「俺は――」
言いかけた大輔の口を陸は人差し指を当てて止めた。
「鍵なら返してもらったよ」
今ここに持っていないのは残念だけれど、確かに早紀から受け取った。
「お前が?」
「うん。早紀さんに会ったんだ」
「いつ?」
「今日、学校帰りに改札のところで会って」
会ってというより、あれは待ち伏せだったのだと思う。
「お前のところに行ったのか」
大輔は眉を顰めた。
「うん」
早紀もまともには返したくなかったのだと思った。
「何か酷いこと言われなかったか?」
大輔が心配そうな顔をする。
「ううん、大丈夫だよ。ただ、鍵を返してもらっただけだから……かえって同情されっちゃったよ」
「え?」
「三ヶ月でデートしたのは二回だけだって言ったら」
会っていたのはもっと多かったけれど、デートとは言えない。
「だからか……」
「何か言われたの?」
「どんなにいい子か知らないけどあんまり放っておくと愛想をつかされる、そんなことを言っていたよ」
「僕は――」
「いいんだ、陸。早紀の言う通りなんだから。お前が俺を見限ったとしてもそれは仕方ないと思うよ」
陸が言いかけた言葉を大輔は遮った。
「そんなことない、僕は」
「分かってるよ、陸。お前が俺を見限る時にはそれなりに理由があるだろう」
大輔は言いたいことを最後まで言わせてくれない。
「だから――」
「人の気持ちは不思議なものだな。囚われている時には冷めるなんてことは考えられない。俺も早紀と付き合っていた時は他のやつを好きになるなんて思わな
かった」
「ないよ、そんなこと」
断言したかったのに、陸は声が弱くなった。
「お前を責めてるんじゃない。それだけ俺が臆病になってるんだな」
「大輔さんが?」
臆病になってる?
「早紀にそんなこと言われたぐらいで顔を見たくなるくらいに……」
ホントに?
嬉しいことばかりが続くと夢じゃないか思えてくる。
「ねえ」
陸は大輔の手に触れると掌で包むように撫でた。
「ん?」
「夢、じゃないよね」
確かに感じるものに存在感はあった。
「夢ならもっと暖かいところで見たいな」
大輔がぼやくように言う。
「確かに」
ちょっと風は冷たすぎる。
「ごめん、コート取っちゃったから」
「俺はいいさ。これでも少しは鍛えてるし、冷たい風には当たり慣れてる」
大輔が当たり前の様に言う。
「そんなもの、慣れないでよ」
陸が顔を歪めると、大輔がふっと笑った。
「お前の顔を見て安心したよ。帰ろう」
大輔はブランコから立ち上がった。
陸はコートを脱ぐと大輔に掛けた。
「寒いだろ?」
大輔が脱ごうとする。
「じゃあ、少しだけ入れて」
コートの片側を持ち、大輔の脇に入って自分を包むようにした。
「肉まんがまだ残ってるんだろ?」
大輔が袋を指す。
「ん、でももう冷えちゃってるから家で食べる」
ついさっきまで温かくて湯気を上げていたのに、今はもう沈黙していた。
大輔が肩に腕を回してくると、行こうという仕草をした。
足を一歩出して、
「来週の木曜、時間があるんだったら学校帰りにどこかで会うか?」
大輔がそう言ってきた。
――え?
「会えるの?」
「ああ、休みだから」
「でも、いいの?」
休みは休みでそれなりにやることはあると思う。
「嫌なら、無理にとは言わないさ」
大輔が軽く笑う。
「嫌なわけないじゃん」
来月になるまで会えないかと思っていた。
「でも、なんで急に? 前はそんなこと言ってくれなかったのに」
怖くなってくるぐらい嬉しいことばかり言ってくれる。
「自分の気持ちに抵抗するのを諦めただけだ」
「え? 抵抗してた?」
なぜ? 何のために?
「お前の気持ちは若い時特有のすぐに変わってしまうものだと思っていたよ。だから、本気になったらバカを見るだけだと思っていた。でも」
大輔が肩をぎゅっと抱いてくる。
お前には負けた――耳元で大輔が囁いた。
「酷いよ……」
本気だったのに。
「ごめんな」
「ううん」
もう、今となっては何がどうでもいいと思った。
熱く囁いてくれる唇があって、抱きしめてくれる腕がある。
「いいんだ。分かってくれたなら」
頬を掠める風は冷たかったけれど、大輔のコートの中は暖かかった。
エレベータは今、上に上がって行ったばかりのようだった。
「いいや、階段で行こ」
陸は飛んでいきそうなくらい気分がウキウキしていた。
あの大輔が別れ際に頬にキスなんてしてくれた。あまりの変わりように、「本当に大輔さ
ん?」なんて間抜けな質問までしてしまった。
優しい笑顔が突然呆れ顔になって、「じゃあ、誰だって言うんだ」と大輔は文句を言った。
盆と正月どころじゃなくて、クリスマスもバレンタインデーも子供の日も七夕も一緒に来てしまったくらい、楽しい気分になっていた。
「やっと、着いた……」
流石に六階まで階段を上るのは身体が辛くて息はぜいぜいしていた。けれど、それさえどうでも良かった。
「ただいま〜」
元気に居間に向かって声をかけ、陸が自分の部屋へ行こうとしたら。
「陸!」
激しい声が居間から聞こえ、同時に母が姿を見せた。
「どこに行ってたの!」
そのまま厳しい口調で聞いてくる。
「あ、えっと、大輔さんに会って、少し話をして帰ってきただけだけど?」
コンビニでちょっと買い物をしてマンション内の公園で話をしていただけだから、そんなに時間は経ってないと思った。
「どんな話?」
――え?
それを言えと言われても素直に話すことはできない。
「なんで、そんなこと聞くの?」
何か怒っているようで、その原因が分からない。
「言えないことなの?」
厳しい口調は変わらない。
「何かあったの?」
別に今朝はいつもと変わりなかった。さっきの電話も変わった様子は無かった。何が母を変えたのだろうと思った。
「何か隠してるんじゃないの?」
母が訝しげな顔をする。
え?
――ばれた?
まさか、キスしていたところを見られたのかと、陸は背筋がぞっとした。
いくら信頼があるからと言っても、正直に話して許してもらえるとは思えない。
「こっちへいらっしゃい!」
母が居間を示す。
「鞄。置いてすぐ行くよ」
従わないわけにはいかないようだった。