陸が水族館に最後に来たのは小学校の遠足だった。
けれど、その時行った水族館はあまり大きな魚はいなくて、覚えているのはヒトデと名前が分からない魚が泳いでいたことくらいで面白かった記憶はなかった。
今日来たところは、白くじらが名物でショーもあり水槽の下を通る通路が評判らしい。
チケット売り場にはそこそこ人が並んでいた。

待っていろと大輔に言われ、陸はチケット売り場から少し離れたところで立っていた。
空は青くて、熱気がない秋の風はさわやかだった。
チケットを買ったらしい大輔は少し近づいてきて、けれど、来いという仕草をすると入り口へ足を向けていた。
どう見ても恋人同士のデートには見えないよなあ、と思った。
親子にはちょっと無理があるから、兄弟とか従兄弟同士とか、せいぜいそんな風に見られているのだろうと思う。
腕を絡めて凭れてみたいと思うけれど、人の目はそれなりに気になった。


入り口でチケットの半券を渡し、まず出迎えてくれたのは、せいうちだった。
「えっ」
陸は一瞬絶句し、大輔を見上げた。
「ん?」
気づいた大輔が何?という表情をする。
「……あいさつ、してるよ……」
ショーのブースじゃない。
水槽の中の魚というのはただ泳いでいるだけだと思っていた。
それが、あいさつだと向こうが認識しているのかは分からない。けれど、頭を下げるしぐさはまるで挨拶で、ひれを振る姿は拍手をしているようだった。
「そうだな」
大輔が口元を緩めると、頭をくしゃと撫でる。
そうされることは嫌いじゃないけれど、まるで自分が幼稚園児にでもなってしまったような気がする。
年齢の差はどうにもできなくて、大輔に自分はどう映っているのだろうと思うと不安になる時がある。
近づきたい。
距離も歳も考え方も。
時間を重ねていけばできるのだろうか。
けれど、今はそれさえもどかしいところにいた。

人はそれなりに居たから順路に従って水槽の中を見ていった。
ペンギンは立っているだけで可愛かったけれど、その中で黄色のアクセントカラーをもったやつは何か因縁でもつけているように不機嫌に見えて、それは、なぜ か自分のように見えた。楽しそうに話をしながら水槽を見ている親子連れやカップルの中で自分だけ異質な気がする。
心の中に抱える不満はある。
けれど、何が不満なのだろう。
会いたくて会いたくて仕方なかった人が隣にいて自分を見てくれて、それで十分だと思うのに心の片隅で満足していない。
ホッキョクグマは飽きないのかと思うほど狭い水槽の横断を繰り返し、アザラシは高速で水槽の端から端まで泳ぎまわっていた。
「わあ……」
思わず声がでてしまうほど、水槽のトンネルは色とりどりの魚が流れていく。
「綺麗だな」
大輔が目を細める。
「ん」
やっと取れた時間だった。この次はいつになるか分からない。だから不満なんて感じずに楽しみたいと思うのに、自分の心は我がままだ。
「ねえ、次はこっち」
陸は大輔に腕を絡めると順路とは違う方へ引いた。
「え、そっちは違うだろ」
大輔が怪訝そうな顔をする。
「え、あ、ホントだ」
知っていたけれど、知らなかった振りをした。
手が届くところにいるのだから触れたくなる。けれど、どうやってて触れていいのか分からない。
腕を絡めたまま大輔を見上げると、大輔が小さく笑った。
「人が多いから、はぐれないように、な」
絡めた腕を取るように手を繋いでくる。
「ん」
胸にふっと温かいものが沸いてきて、それはくすぶっていた不満を溶かしてくれた。
人々のざわめきが遠くなっていくような気がして、大きな手が手だけでなく自分全てを包んでくれるような気がした。
「行くぞ」
大輔が目線で順路を示す。
「ん」
少し近づいた気がした。
腕を絡めた意味をきっと大輔は読み取ってくれて、望むカタチで示してくれた。
「大輔さん」
「ん?」
呼びかけると、見てくれる。
「ここを出たらどうするの?」
それが聞きたいわけじゃない。
「入ったばかりだろ。まだ半分以上あるぞ」
大輔は呆れたような顔をした。
「ん、それは分かってるよ」
分かってる。五階立ての建物はまだエスカレータをひとつ上がっただけだ。
「まあ、昼飯食って」
「ん。それから?」
それから?
大輔は少し戸惑った顔をした。
「……うちへ来るか?」
「うん!」
我がままだなと思う。
触れたくて、触れたらもっと触れたくなる。
「じゃあ、夕飯はうちで何か作るか」
え?
「大輔さんが?」
意外だった。
「大したものはできないけどな」
「ううん」
陸は頭を振った。
「手伝うよ」
二人でやったら楽しそうだと思った。
「何か食べたいものあるか?」
「……言っていいの?」
陸が大輔の顔を覗きこむと、大輔は視線を逸らすように天井を見上げた。
「聞かない方が良さそうだな」
呟くように言い、手をぎゅっと握ってくる。
言いたいことは通じたらしい。ならいいや、と陸は思った。
すぐ先に大きい水槽が見えてきて、白く大きな魚が水中で立つように身体を揺らしていた。

「で、昼は何食べる?」
水族館を出てすぐに大輔は言った。
ショーまで見たから、太陽は少し西に傾いていた。
「何でもいいよ」
もう手は離していたけれど、これから大輔のアパートに行けるのだと思ったら不満は無かった。
「じゃあ、釜飯にしよう」
そう言って大輔が親指で示す。示す先には、のぼりがあって暖簾がかかっていた。

昼の時間は過ぎているからか店内は空いていた。靴を脱いで入る形式の店はひとつひとつのテーブルが壁で仕切られていた。
「何にする?」
大輔がメニューを見ながら言う。
「違うのを取って半分づつにしようよ」
釜飯だけなのに十以上あるメニューからひとつを決めてしまうのは何か残念な気がした。
「じゃあ、何と何がいい?」
「えっと……蟹と鳥ごぼう、なんてどう?」
チャーシューも捨てがたいし、いくらも美味しそうだった。
「いいよ」
大輔がテーブルのブザーを押す。
「いいの? 僕が決めちゃって」
メニューには美味しそうなものがいくつも並んでいた。
「ああ、なんで?」
大輔が見てくる。
「大輔さんが食べたいものは?」
釜飯にしようと言ったのは大輔だった。食べたいものがあるんじゃないかと思う。
「俺?」
大輔が戸惑った顔をした。
え? なんで?
ただがメニューの選択で戸惑うことはないと思う。
「食べたいものがあったんじゃないの?」
単なる疑問だった。なのに。
「俺は――」
見てくる瞳が戸惑いを写していた。
何? そう聞こうとしたのに。
「注文はお決まりですか?」
そう言って店員が壁の影から姿を現した。

「良かったの?」
店員が行った後で陸はもう一度大輔に聞いた。
「ああ」
大輔はこっくりと頷き。
「何でも旨いさ」
そう言うと笑った。
それが本当の答えなら――。
何も戸惑うようなことはないと思う。
「せっかくここまで来たんだ。観覧車ぐらいは乗ろうな」
「ん……うん」
話を変えてきた?
陸はそう感じた。
何?
けれど、話を逸らそうとするなら、言いたくないことか、ここでは言えないことなんだろうと思う。
――どうせ、アパートに行くんだから
疑問は全て持って行けばいい。
「他にも乗りたいものがあるか?」
「ううん」
その質問には陸は頭を振った。
「観覧車乗ったら帰ろ」
それでも大輔のアパートに着くころには太陽は十分西に傾いているだろう。
「大輔さんが作ってくれる夕飯が楽しみ」
二人きりで、久しぶりに過ごせる時間だった。

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