結婚なんていうのは、陸にとって遠い言葉だった。
そんな先のことまで考えていない。
けれど、大輔にとっては?
大輔にとっては身近なことかもしれない。

陸がふっと気が付くと、大輔と約束していた時間とはもうかけ離れた時間になっていた。
あれから、早紀の言葉は耳の中を素通りしていて、陸はただ生返事を返していた。
早紀がいつ帰ったのかも分からなかった。
大輔は決着をつけると言っていたのだから、また早紀と会うのだと思う。
会って。
そして?
その後に、大輔が自分のところに戻ってきてくれるのかは分からない。
自分達は出会ってからまだ一年も経っていないけれど、早紀は大輔と十年の付き合いがあると言った。
何回か会っているうちに気が変わるかもしれない――。
考えは悪いほうにしかいかない。
だって、そうだ。
一度掴みかけたものを手放していた。
あの人は確かに一度は自分の方を向いてくれたと思ったのに、選んだのは違う人だった。

ドアのノブが回る音を陸はぼんやり聞いていた。
「陸?」
大好きな声が聞こえてくる。そして姿を現すのはすぐだった。
「しばらく来ないと言ってたんじゃないか? もう何時だと思っているんだ!」
陸が声のする方へ顔を向けると、大輔は眉根を寄せ難しい顔をしていた。
「陸?」
大輔の声が変わった。
「どうしたんだ?」
近づいてきてしゃがみこみ、すぐに触れられるところまでくる。何も考えていなかったのに、腕を回して抱きついていた。
上着から澄んだ空気の匂いがした。その後で、いつも感じる匂いがふわっとした。
「陸?」
大輔の手が頭を撫でる。
子供扱いは変わらない。
「どうした? 家には連絡していないんだろ? すぐ電話しろ、送っていってやるから」
耳元で囁きながら、手がポケットから携帯電話を出していた。
「……やだ……」
「え?」
「……帰らない」
「何言ってるんだ」
大輔は大きくため息をついた。
「明日学校があるんだろ?」
聞かれて。
「行かないっ」
ぎゅっと手に力を入れた。
このままずっと捕まえていられたらいいのに、と思う。
「そんなわけに、いかないだろ?」
あごに手をかけられて、上を向かされた。
「……やだ……」
それしか言えなかった。
離したらもう会えなくなってしまうかもしれない。
「何があった?」
「……やだ」
陸は頭を振った。
「どうしたんだ」
大輔がため息をつく。
困らせているのは分かっていた。
少なくとも今この人が選んでくれているのは自分で、でも、不安は消えない。離してしまったら、この人は自分のところから離れていってしまうかもしれない。
「……いかないで」
「どこへ?」
大輔の声は呆れていた。
「どこへも行っちゃ嫌だ……」
やっと、掴んだのに。
「兎に角、連絡はしなきゃだめだろ」
大輔が携帯を差し出す。
陸は顔を背けた。
「陸!」
大輔の声は無視して、額を胸に押し当てた。ただ、捕まえていたかった。
「仕方ないな……」
大輔は呟くように言うと、携帯を開いた。

呼び出し音が聞こえていた。
それが、ぷつっという音の後、母の声に変わった。
「すいません。柏です」
いつも通りの声だった。
「陸くんが寝ちゃってたみたいで、今帰ってきて起こしたんですけど、まだ寝ぼけてるみたいで、今から送――」
大輔の言葉を聞いて、陸は額を押し当てたまま、頭を振った。
このまま帰ることなんてできない。離したくないと思って、陸は大輔の上着をぎゅっと握り締めた。
「って行こうかと思ったんですけど、もう遅いのでうちに泊めようと思うんですが、いいですか?」
――え?
大輔が許してくれるはずはないと思っていた。
どれだけ駄々をこねても、結局家に送り返されると思っていた。
合鍵を返せと言われたら逆らうことはできないし、力では負けるに決まっていた。
けれど――。

大輔が通話を切ったとき、陸は体から力が抜けた。
「これでいいのか?」
声が少し低く感じた。わがままを言ったのだから怒っていても仕方ないと思う。
「あいつが何か言ってたのか?」
聞かれて。
陸は答えることができなかった。
大輔がため息をつく。何回目のため息か分からなかった。

「夕飯まだなんだろ?」
諦めたらしい大輔は質問をかえてきた。
「少しだけ、食べた……」
早紀が買ってきてくれたものを分けて食べた。
「あれか?」
大輔が指し示したのは、大輔にと残しておいたものだと思った。
「ん」
「あれだけじゃ、足りないだろ」
「何も欲しくない……」
空腹は感じなかった。
「だめだろ、それじゃ。何か買ってきてやるから待ってろ」
大輔が立ち上がろうとする。
「……嫌だ……」
大輔を引き寄せるように、抱きついた。
「じゃあ、帰るか?」
「嫌だ」
「どっちがいい?」
――どっちか?
二つしか選択肢がないのなら、答えは決まる。
ゆっくりと、陸は大輔を離した。
「すぐ帰ってくるから」
頭をぽんぽんと二回軽く叩くと、大輔は立ち上がった。
そして、すぐにドアの音が聞こえた。

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