足音は大輔だと陸は思った。
近づいてきた足音は躊躇いもなくドアを開ける。
鍵は開いていると確信しているようだった。
「おかえり、早かったね」
最初に声を出したのは彼女で、はぁはぁと息を荒げている大輔は眉を潜めごくりと喉を鳴らした。

「外へ行こう」
唐突に大輔が彼女に向かって言った。珍しく大輔が険しい顔をしていた。
「え、でも、もうすぐご飯もできるし……」
彼女が怪訝そうに言う。
「いいよ、早くしろよ」
大輔の声はいらいらしているようだった。
話ならここですればいい――陸はそう言おうとしたのに声がでなかった。今まで見たことがないような表情で、自分のことなど視界には入っていないように感じ た。
「……でも、ケーキも」
「いいから!早く」
大輔があごをしゃくって外を示す。
彼女が躊躇っていると。
「陸の邪魔をするなっ!」
大輔の大声が響いて、陸は体がぴくんと震えた。
「あ……」
驚いたような顔をして彼女はエプロンをはずすと流しの上に置き、下においていたショルダーバッグを取った。
そして、はっとしたように顔をあげると、陸を見てきた。
「陸? 環くんじゃないの?」
――環?
その名前に聞き覚えはあった。
「いいから」
大輔は部屋にあがってくると、彼女の置いたエプロンをとり、彼女の背中を押す。
「どこへ行くの?」
陸は咄嗟に声がでた。
「お前が気にすることはない」
穏やかだった声音はそれでもいつもより鋭く感じた。
「帰りは気をつけるんだぞ」
それは別れの挨拶で。
「あ、うん」
陸が答えると、大輔がうなづく。
そして、少し不満げな顔をした彼女をかまわず大輔は押した。
――誰?
部屋を出ていく二人を陸は見ていることしかできなかった。
しばらく二人が消えたドアを見ていて、ひとつため息をつくと、陸はテーブルに戻った。

「あ……」
ふとひらめくと、陸は問題集とノートを鞄の中へしまった。
ここにいられる時間は決められていて、破ったら合鍵を取り上げられるかもしれない。けれど、外に出たら制約はないはずだ。
話をすると言ったのだから、駅近くにあるファミレスか喫茶店か、そういうところだろう。
尾行のスキルなんてないけれど、そっと付いていったら、もしかしたら話の内容を聞けるかもしれない。
少しだけ後ろめたい気持ちが顔を出してくる。
けれど、このままで帰れるわけがない。
合鍵を持っていた彼女は親戚とか兄弟とかではきっとない。


陸は部屋を出て鍵をかけると、そっと階段を下りた。
外の方が音は響くだろうと思う。気づかれてしまったら、帰れと言われるに決まっていた。
アパートの門を出て、右左を見回してみたけれど、二人の姿は見えなかった。
陸はこの辺りの地理に詳しいわけではない。大輔に連れられてきた駅からの道しか知らない。ただ、その途中にファミレスが一軒ある。
そこだろうと、あたりをつけた。
中華料理屋という名前のラーメン屋で話はできないだろうとふんだ。
左の道をとり、二つ目の角を右に曲がる。その先は直線だからうまくすれば、後ろ姿が見られるかもしれない。
少し早足で行って、角からそっと覗いて見ると、少し先に二人の姿が見えた。
「ビンゴっ」
小さく呟いて、陸はそっと道の端によった。
人波とは言えないが、対向して歩いている人は常に数人いた。
あたりは薄暗くなっていて、道端の電灯もついていた。

遠目から見ると、二人は恋人同士のように見えた。
今にも、彼女が腕を絡めるんじゃないかという気がしてくる。
――だめだよ
陸は心の中で呟いた。
まだ恋人とは言えないかもしれないけれど、予約はしてある。
誰にも渡したくはなかった。

少し後ろから付いていくと、二人は角を曲がった。
そこは、駅へ行く道ではない。
――どこへ行くんだろう
一抹の不安が起こってきて、足は速くなった。見失ったら分からなくなってしまう。
角を曲がったところで、先を見渡すと二人の姿はなかった。
「えっ」
見失うほどの時間はかかっていなかったと思う。
まっすぐに行ったなら、見えていておかしくないと思った。
――どこかで曲がった?
いつも通る道は事務所が多く住宅街ではないけれど、その道を横に入ると住宅やアパートが並んでいた。
あたりは暗くなってきていて、下手に入り込むと迷ってしまうかもしれない。
でも――。
陸は先へ進んだ。
道が続いているならどこかへ出るだろうし、歩いている人に聞けばいい。
この先に何があるのだろうと思いながら、脇道へ視線を向けると。
「あ……」
「どこへ行くんだ?」
電灯の下で大輔が腕組みをして立っていた。
「駅へ……」
それしか言葉が浮かばなかった。
「ふふっ」
後ろから彼女がおもしろそうに、顔を出す。
大輔はひとつため息をついて。
「こいつ駅まで送っていくから、先行ってて」
と駅の方を指差し彼女に言った。
「あ、いいよ。僕一人で大丈夫だよ」
陸は手を振って断った。ここで捕まったら終わりだ。
「お前のためじゃない。俺のためだ」
一刀両断できられると、陸は腕を大輔に捕まえられた。
「ほら、行くぞ」
まるで、補導された少年のようだと陸は思った。
「じゃあ、またね」
彼女が笑いながら、手を振る。
陸は負けた気分になった。

「お前が気にすることはない、と言っただろ」
慣れたように腕を引っ張りながら大輔がため息交じりに言う。
「だって……きれいな、人だね」
学校に教育実習にでも来れば一日で話題になるような人だと思う。
「……お前が方が、かわいいさ」
大輔の言い方が投げやりに聞こえた。
褒めてくれたつもりなのだろうとは思ったけれど、ちょっとずれてるよ、と思う。
それでも、少しうれしくなっていた。
「何の話……するの?」
聞きたいのはそこだ。
「お前には関係ない、気にすることはないと言っただろ?」
「でも……」
気にならないわけがない。
「安心しろ。もう終わったことだ。俺はあいつに振られてるんだから」
――え?
かえって安心できなくなったじゃないか、と陸は思った。
振ったやつのところで、うれしそうに料理を作るやつはいないと思う。
陸が立ち止まると、大輔も立ち止まって怪訝そうな顔をした。
「どうした?」
「気にするな、っていう方が無理だよ。だって、あの人は彼女だった人でしょ。彼女が戻ってくるならよりを戻すかも……しれないんでしょ」
言いながら陸は大輔を見上げた。
大輔は困ったような表情をした。
「お前は俺が信用できない? 俺が二股をかけるとでも思ってるのか? 」
大輔が目を細める。
「違うけど……」
「じゃあ、何」
「だって、僕の知らないところでどんな話を――」
「どんな話をしようとお前には関係のないことで、お前が気にすることじゃない」
「でもっ」
分かってくれないことにいらだってくる。
好きだと言ってくれても不安はある。歳の差もある。どうしても子ども扱いされていると思う。抱いてくれないのもそのひとつだ。だから、まだ恋人だと認めて もらっていない気がする。
「お前もあいつと同じ?」
大輔の声が訝しげに聞こえた。
「え?」
「俺の言うことが信じられない?」
「あ……」
陸は言葉が告げられなかった。
信じていないわけじゃない。けれど、不安に思う気持ちはどうにもならない。
けれど。
彼女と同じ? と聞かれてどうすればいいのか。
うんとうなづくことはきっといい結果をもたらさない気がする。
「信じてくれるなら、今日は大人しく帰れ」
大輔が言う。
厳しい口調ではなくても、それは命令に聞こえた。
「ほら、行くぞ」
大輔が腕を引っ張る。
「大丈夫……一人で帰れる。だから、腕を……離して」
陸が言うと、大輔は掴んでいた手を離してくれた。

しばらく無言で歩いていると、渡る横断歩道の信号は赤だった。
「ここで、いいよ」
陸は隣を歩く大輔に声をかけた。
駅のロータリーが見えていた。
「今日は大人しく帰るよ」
それしかないんだ、と思う。
「陸……」
自分から命令したくせに、大輔の声が不安そうだった。
「信じていいんだよね」
陸が見上げると。
大輔は優しく二度うなづいてくれた。
「うん。じゃあね」
信号の変わり目に、陸は足を前に出した。
大輔は追いかけてきてはくれなくて、けれど、改札にあがる階段に来るまで、信号のところでずっと見ていてくれた。
信じていいことあったっけ、と思う。
でも、信じられないとは言えなかった。

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