夏休みは早々に終わり、新学期が始まって一ヶ月が過ぎた。
「えっと」
陸は床に置いていた参考書を取り上げた。
合鍵を貰ってから、陸はほとんど毎日のように大輔の部屋に来ていた。
来てやることはできない、と言っていた大輔なのに、少し息抜きだと言って差し入れを持って週に一回は来てくれた。
いつ来てくれるか分からないから、サボることはできなくて、いつも問題集や参考書を開いていることになる。
「そろそろ来てくれないかな……」
少し息が抜きたくなった。
「でも」
陸が来た時にいないということは休みなわけじゃない。
来てくれるとも限らなかった。
それは仕方ない。
七時には帰れと図書館のような規則も付けられていた。
ひとつため息をつくと、かつんかつんと階段を誰かが上がってくる音が聞こえた。
大輔だ、と陸は思った。
隣近所にどういう人が住んでいるのかは知らないが、陸のいる間は無人なようで静かだった。だから、階段の音も拾えた。
もう一問解こう。
そう思って陸は、シャーペンを走らせた。
期待通り、がちゃっと鍵を開ける音がした。
「陸?」
玄関から声をかけてくる。
「うん。いるよ」
体を伸ばして、部屋から顔を出した。
すると、大輔はにこっと笑ってくれて、手に持った袋を持ち上げて揺らす。
「あっ!それ食べたかったんだ」
陸は立ち上がると、大輔のところへ駆け寄った。
袋を見てこの間話をしていた今話題の新製品だと思った。なかなか手に入りづらくなっていて、発売から結構日にちは経ったのにまだ食べていない。
うわさにつられて買いに行った母も売り切れだったと、嘆いていたりした。
「残念だけどご期待のものは無かった」
大輔が袋を渡してくれる。
中を覗くと、まだ温かくて、けれど、確かに期待していたものではなかった。
「あ、でも、これも好きだから。お茶の用意するね」
袋を大輔に返して、陸は流しに立ってやかんに水を入れた。
仕事中だから大輔はコーヒーで。自分には紅茶を入れる。
「ほんと、売ってないんだな」
大輔がため息をついた。
「店を三件回ったのに――」
少し不服そうだった。
「うん。母さんは諦めたみたい。そのうち、普通に買えるようになるって言ってる」
母は発売早々買いに行って買えなかったのが悔しかったらしく、三日連続で挑戦して惨敗していた。
よくよく聞くと、店によっては前日前々日からの予約が入っているらしい。それじゃあ、その日に行っても買えないわけだ。
陸が入れたコーヒーと紅茶を持っていくと、大輔は陸がやっていた問題集を見ていた。
「はい」
目の前にカップを置くと、大輔が分かったというように頷く。
「進んでるか?」
聞かれて。
「うん。今度の試験は一番とるよ」
自信は半分半分だけれど、少し見栄をはった。
「目標があることはいいことだな」
大輔がコーヒーを口に運ぶ。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「環たちの件――」
大輔が言いづらそうに口にする。
「あ、うん」
気にはなっていた。
「週に一回だけど人が見つかって時間が取れるようになったんだ。来週からはじめるんだけど、陸も来るか?」
「え、あ、うん」
また、環や良太に会える。
「いいのか?」
大輔が訝しげな顔をした。
「なんで?」
大輔がなぜ言いづらそうなのか、訝しげな顔をするのか分からなかった。
「何も知らないやつらは、陸が来ると思い込んでいるらしい。けれど、環も良太もお前のことを気にしてる」
「なぜ?」
思い浮かぶ理由はない。
「陸があんな目にあった責任を感じてるんだ。お前は平気なのか?」
あんな目?
――ああ、そうか。
思い出すのに少し時間がかかった。
「気にしていないって言ったのに」
もうすべて終わったことだ。
確かに、二度とあって欲しくないことではあるけれど、あんなことが無かったら、今こうしてはいられない。
「本当に、そう思っているのか?」
大輔が目を細める。
「本当だよ……それより、温かいうちに買ってきてくれたやつを食べよう」
陸はテーブルの上においてある袋の中からひとつ出して大輔に渡した。
「お前ってやつは……」
大輔が呆れたように笑う。
「気にしなきゃいけない?」
陸も一つを取り出した。
「いや……そう言える。お前が偉いと思うよ」
小さくうなづきながら言葉にする。
「……別に偉くないよ」
陸は言いながら、手に持ったものの包装を解いた。
手の中にはごまパンズの中にパテが二枚とレタスとトマトにチーズが挟まっているものがあった。
「お前がいいなら、いいんだ」
大輔も包装を剥く。
「いただきます」
呟いて、陸は一口かじった。
こんな風に向かいあっていられるのは、あんな事があったからだ。
「美味しい」
陸が大輔に向かって言うと、大輔は笑った。
「味だって大して変わらないだろうに、な」
大輔はお目当てのものが買えなかったことが気になるらしい。
「ね」
陸は相槌をうった。
話題のやつは、パテが普通のやつの二倍の厚みがあって、CM曰く上質な肉なんだそうで、ピクルスも二枚入っていて、チーズも二枚入っているらしい。
でも。
大輔と向き合っているなら何でも美味しく感じるんじゃないかと思う。たとえば、嫌いなブロッコリーも気がつかずに口に入れてしまうかもしれない。
こうしていられるのは、あんなことがあったおかげだった。
感謝まではできないものの、恨みにもっていたりはしない。
ほんの十五分ほど休んで、大輔は家を出て行った。
「気をつけて帰れよ」
心配そうに一言言って。
唇に軽く触れてくれて。
それは、いつも同じだった。
大輔がいなくなると、急に部屋の中が静かになる。
不思議なものだな、と思う。
会えたのに、寂しさを感じていた。
いつものように大輔の部屋でかりかりとシャーペンを走らせていて、陸はふっと時計を見た。
「今日は無しかな……」
時計を見て思う。
だいたい、大輔が来るのは五時から六時の間だった。あと五分ほどで六時を回る。
「昨日は来てくれたし……」
たった十五分ほどとは言っても毎日は無理だろうと思う。
会えることを期待してはいなかったのだから、今以上の贅沢は言えない。
「でも……」
期待してしまう気持ちはあって、結局いつも七時までいてしまう。
不意にかつんと甲高い音が聞こえて、陸は え? と思った。
誰かが階段を上がってきたのだろうとは分かる。
けれど、それは大輔の足音だと思えなかった。
隣かな?
そう思いながらも気になって、手を止めたまま、陸は音を聞いていた。
足音は大きくなってきて、ドアの前で止まった気がした。
甲高い音は女ものの靴のように思えて、郵便とか宅急便とか新聞の勧誘には思えなかった。
どちらにせよ、鍵はかけてあるから応対しなければ、帰るだろうと思う。
それでも気になって陸は様子をうかがっていた。
この部屋に来たのだとしても、ノックしてくるか、インターホンを鳴らすか。
そう思ったのに、がちゃがちゃと鍵を開ける音がした。
え?
陸は立ち上がると、奥の部屋の入り口から玄関を覗き込んだ。
ちょうどドアが開いて、入ってきたのは女の人だった。
「え?」
お互いに見つめあい、驚いたように固まっていた。
――誰?
陸は自分以外に合鍵を持つ人を知らなかった。