「陸」
体を軽くゆすられて、陸ははっと意識が戻った。
「あ……」
顔を上げるとすぐ近くに大輔の顔があって、心臓がどくんと鳴る。
「もうすぐ着くから」
大輔に言われて陸が正面を向くと、もうすでに電車はホームに滑り込んでいた。
昨晩眠れなかったこともあると思う。
それだけではなくて、大輔の傍にいると安心するのは確かだった。
電車を降りると階段を上って改札を出る。
出口は左右に分かれていて、右は署で左は大輔の家だった。
「何か買って帰るか?」
駅の階段を下りながら大輔が聞いてくる。
「うん」
たぶん、飲み物のひとつも置いてないのだろうと思った。
「何がいい?」
「何でもいい」
何も考えられない。考えたくない。
何かを考えようとしたら忘れたいことが脳裏に浮かんできそうだと思う。
そう思うってことは忘れていないということで。
忘れたいことがすぐに忘れられるとしたら楽だと思う。
そんなことができれば、悩むことなんてなくて楽しいことだけ考えていられるのに、そうはできていないらしい。
「何でもいいよ。早く大輔さんの家に行こう」
陸が急かすように繰り返すと、大輔は一瞬曇った顔をした。
――え?
表情ひとつで不安になる。
「そっか」
けれど、曇った顔は一瞬ですぐに口元を緩めると頭を撫でてくる。
ずるいな、と陸は思った。
自分は触れたいと思っても腕に捕まりたいと思っても我慢しているのに、大輔は何気なく自然に触れてくる。でも、それは、満たしてくれる前に離れていってし
まう。
触れられることの心地よさを知ってしまったから、それを求めてしまう。離れていくことに寂しさを感じてしまう。
そのくせ――。
小さなしこりは存在を主張する。
そんなことはいいんだ――そう思って押し込めようとしても、それはもやになって心の中にとどまっている。
「あ……」
少し歩いたところで、陸の目にとまるものがあった。
「何?」
立ち止まってしまった陸にあわせるように大輔も立ち止まる。
「合鍵……」
道沿いにある小さな店の上に『合鍵・靴・傘』とそっけない看板がかかっていた。
「合鍵?」
陸の言葉を繰り返すように大輔が呟いた。
「欲しい……だめ?」
陸が大輔を見上げると、大輔は困ったように頭をかく。
「どうするんだ? 俺だって寝に帰るだけの部屋だぞ」
それは分かっていた。
「うん。分かってる。でも欲しい」
たとえ会えなくても、帰ってくる場所だ。
「……お前は俺に何を期待してる?」
大輔にまっすぐに見られて、陸は答えられなかった。
「……こんなところでする話じゃないな」
大輔は一度視線を伏せた。
「ひとつぐらいあっても困らないだろ」
呟くように言うと、大輔は店の看板を一度見上げ店の中へ入った。
機械は金属を削る音を響かせて、合鍵は五分とかからずにできた。
すぐに渡してくれるのかと陸は思ったのに、大輔はできたばかりの合鍵を自分のポケットの中へ入れた。
それをどうするの?
問いは喉まできても、声にはならなかった。
コンビニで大輔の後ろを歩きながら、陸は頭の中では大輔の言葉が回っていた。
『何を期待してる?』
そんなことを考えたことはなかった。
自分の方を向いてくれることだけを思っていた。それが望みだった。今、自分を見てくれる大輔にこれ以上何を望むというのだろうと思う。
忙しい人だということも、自分が独占できないことも分かっているつもりだった。
「ケーキ、食べるか?」
突然後ろを向いた大輔が聞いてきて。
「うん」
陸は咄嗟に頷いていた。
「何がいい? ショート? モンブラン? チョコレート?」
「チョコレート」
答えが頭を素通りして出ていく。
「ポテトチップ? おにぎり?」
「両方」
「そんなに食べるのか? まあ、育ち盛りだからな」
大輔がかごの中へ入れていく。
――何を期待しているのかな
傍にいてくれること?
でも、それは無理だ。
会計を済ませて店を出ると、大輔が顔を覗き込むようにしてきた。
「何を考えてる?」
声は優しかった。
「さっきの質問」
結局答えはでない。
大輔は少し意外そうな顔をして、けれど、先を促すようにするから陸は足を前にだした。
「そんなに難しかったか?」
横に並んで歩きながら、大輔が問いかけてくる。
「うん」
数学の問題のように答えが書いてあるものなんてきっとない。
「人は何かをするとき、必ず理由があるものだろ?」
「きっと……」
考えたことはなかった。
「合鍵を欲しがる理由を俺はひとつしか考えられなくて、俺はそれにはきっと応えられない」
「僕は……」
陸は頭の中で言葉を捜していた。
大輔が思うことと、自分が思うことはきっと違う。
でも、それは言葉で説明しないと分かってもらえない。
「俺はお前が部屋で待っていると分かっていても帰ってはやれない。帰りたくても帰れるわけじゃない」
ゆっくりした歩調の中で、大輔が視線を向けてくる。
「分かってる」
そんなことを望んだわけじゃない。
「なら、合鍵なんて意味ないものだろ? 分かっていると言っていても不満は溜まってくればはけ口を欲しがる」
「……それは、経験?」
言葉がついっとでた。
大輔に以前彼女がいたことは知っていた。
大輔はまるではぐらかすかのように視線をすっと逸らした。
「よく言われていることだ。俺はお前とのことを大切にしたい。でも、できないことはできない。それをお前が望むなら……」
口を噤むと喉をごくりと鳴らす。
――なら?
大輔が口にしなかった言葉はなんとなく想像できた。
合鍵を欲しがるなら、この関係をやめた方がいいってこと?
言葉なく進む道の先には、大輔のアパートが見えてきていた。