空気がむっとしていて、蝉の声がうるさかった。
時折、申し訳なさそうに吹く風に体がほっとため息をつく。
陸は病院から帰る大輔を送りがてら病院の中庭を散歩することが日課になっていた。
「大丈夫か?」
横を歩く大輔が時折不安そうな顔をする。
「うん。ゆっくりなら」
大丈夫だと言われていても足を動かすことはまだちょっと怖い。
入院してから一週間が過ぎていた。傷跡もだいぶきれいになったし、一応生活に困らないくらい動くことはできた。
入院している間は、大輔が顔を見せに来てくれる。けれど、家に帰ったらそんなことはないだろう。
傷が治ることを喜ぶ気持ちの影に、退院したら大輔と会えなくなってしまうことを嫌がる気持ちがあった。
二週間ほどで退院できると聞いた。もう半分が過ぎている。
「あの、環たちの話はどうなってる?」
声をかけると、大輔が視線を向けてくれる。
勉強する場が欲しいと、環の仲間は言っていた。
大輔は一存では決められないと言った。短期間ならまだしも長期ともなればそうだろうと納得はできる。
「ん……今は人を当たっているよ。陸にやらせるわけにはいかないから」
――え?
話は進んでいるのだということが少し驚きだった。
あのまま、消えていってしまうことかもしれないという気持ちがなかったわけじゃない。
けれど。
「なんで? 僕じゃだめなの?」
資格を持っているわけではないけれど、バイトにしようと思うわけじゃない。場所が確保できるなら、仲間内で分かるわつが教えるスタンスでもいいんじゃない
かと思う。
もし許可がでるのなら拒みはしないと思った。
「何かあったときどうする? 俺がずっと付いているわけにもいかない」
「あ……」
そうだよな、と思った。
あの時はずっと付いていてくれた。
前のようには会えないとは言っても、会える確立は高くなる。
このまま退院してしまったら、それから先はどうなるのだろうと思う。
会えないまま関係は自然に流れてしまうかもしれない。
約束さえ、果たされるのか分からない。
「遊園地は?」
連れて行ってくれると言った。
「夏休みが終わる前に行けるといいな」
まるで他人事のように言う。
「日にち、決めようよ。そうしたら、張り合いになるし」
歩く練習を毎日していた。
大丈夫だと言われても、頼るものがないと恐る恐るになってしまう。
「そうか?」
大輔は意外そうな顔をすると、胸ポケットから手帳を取り出して、指をさしながら、何か確認していた。
「夏休みだから休日じゃなくていいんだよな」
手帳を見ながら聞いてくる。
「うん。いつでもいいよ」
早く会いたい。
そして、次の約束をして。
そうしないと、会えなくなりそうだと思う。
「じゃあ、この日なんてどうだろ」
手帳を見せてくれて日付を指差す。それは、二週間近く先の日だった。
「うん」
異論は無かった。だめだと言えば伸びてしまうだろう。ことによると今じゃ決められないってことにも成りかねない。
「じゃあ、待ち合わせは?」
「大輔さんのところの駅のホーム」
少しでも長くいたい。家まで迎えに行ってもいいけれど、最初からそれってどうなのだろうと思う。
「時間は?」
「えっと……九時」
前の日はきっと遅いのだろうから、あまりわがままも言えない。
「OK」
丸サインをもらって、陸はほっと気持ちが落ち着いた。
これで、退院したからといって会えなくなることはない。
「そんなに寂しそうな顔するなよ」
大輔が目を細める。
病院の門がすぐ先に見えていた。
「ん」
贅沢だと思う。短い時間とはいえ、約束どおり毎日来てくれていた。
「明日もまた来るから」
「ん……」
病院の門から十メートルくらい手前、いつもこの場所で別れる。
陸が立ち止まると、大輔も合わせるように立ち止まって、頭を軽く撫でてくれた。
人通りがそれほど多いわけではないけれど、人目のあるところではそれが精一杯なのは分かる。いくら個室の病室とはいってもいつ看護師さんが入ってくるか分
からないから軽いキスだけしかできない。
満たされて、でもすぐに寂しくなる。
門に隠れて見えなくなるまで何度も振り返ってくれる背中に、陸も何度も手を振った。
姿が見えなくなっても動く気になれなくて、しばらくぼんやりと立ち尽くしていた。
それは、いつものこと。
「はぁ……」
ため息を一つついて、陸は踵を返した。
段々わがままになってくるのが自分でも分かった。
少しでも長く一緒に居たくて、少しでも長く触れ合っていたい。
一緒に居るときは明るく見えた空の色まで一人になるとくすんでいるような気がした。
明日もまた来てくれる。毎日会える。
けれど、それはあと一週間をきっていた。
過ぎて欲しくないと思う日々ほど流れていくのは速い。
窓の外を眺めながらこの景色を見るのも最後なんだなと思うと少し切なくなった。
終わってみれば、たった二週間だった。
がらがらとドアが開く音がして。
「荷物できた?」
顔を覗かせた母が言う。
「うん」
陸はテーブルの上に置いていた荷物を持ち上げた。
家に帰れることは嬉しい反面寂しさもある。
もう、毎日大輔には会えない。
きっと、次に会えるのは遊園地へ連れていってもらう約束をした日で、その日まで一週間ある。
部屋を出ると、きりっとしたスーツ姿の長身のやつが丁寧に頭を下げた。
弁護士だと聞いていた。
話はすべて弁護士を通じて行われ、分厚い封筒を渡されたときはどうしたらいいのか分からなかった。
大輔に相談すると。
『正当な金なんだから貰っておけ』
と言う。
『これで済むのなら、相手には痛くも痒くもない金額だ』
とも言った。
それでもためらっていると。
『お前が大きくなったときに、使い道を考えればいい』
と言う。
そのとき返してもいいだろ? と言われて、そんなものなのかな、と陸は思った。
困っている人も多いのに、余っているところもあるんだと実感した。
陸が部屋を出ると、弁護士はすっと手を出してきた。
「お荷物をお持ちします」
「あ……」
陸がためらっている間に、鞄はその人の手にあった。
「では、車を手配してありますので」
手で示し誘導する。
「ご丁寧にありがとうございます」
母が頭を下げる。
なんだか慣れない扱いに陸はぞわぞわした気分になった。
玄関に横付けされた車は黒塗りで色んなところにアンテナが付いていて、おまけにドアまで開けてもらって偉い人になった気分がした。
「では。こちらで失礼いたします」
弁護士は丁寧に頭を下げ、ドアを静かに閉めた。
ゆっくりと車は動き出し。
「はぁ……」
疲れたような母のため息が聞こえた。
すべて夢のような時間、それは家に着くと終わりになるんだと陸は思った。