最初、天井の染みが顔に見えた。
じっと見ているとまるで形を変えたように違うものに見えてくる。
「蝶?」
大きく羽根を広げたおおむらさきが陸の頭に浮かんだ。

退屈だった。
足を動かすこともしているけれど、まだおそるおそるだ。
「何日経ったのかな」
夏休みではあった。学校に行かなければ曜日の感覚もない。
毎日大輔は来てくれて、けれど居てくれるのは数分だった。
最初の日、目に留まったといってチョコを一粒買ってきてくれた。
ガラスケースに一粒づつ並んでいたというチョコは本当に美味しくて、素直に美味しいと言うと次の日も買ってきてくれた。
甘いものを毎日のようにくれた人と記憶が重なる。
ただ、大輔はいつも口に入れてくれるから残らない。口の中で溶けて、無くなってしまって、けれど、それは心の中に溜まっていく。
「早く元気になれよ」
そう、囁いてくれる。
口の中に広がる甘みと共に、胸の中が温かくなる。
仕事の合間に顔を見せてくれるわけだから、時間は特定できなかった。
夏期講習に行けなくなった分宿題は増えて、かりかりシャーペンを走らせながら陸は大輔を待っていた。
部屋は個室で窓からは病院の中庭が見えた。
治療費はすべて負担してくれるということだったから、向こうの誠意なのだと陸は思うことにした。
単なる喧嘩だと主張し喧嘩両成敗だと謝罪にも来ない。もう二度と顔を見たくなかったから、それはそれで構わなかった。陸の中では終わったことだった。

ドアが軽くノックされて。
「はいっ」
陸はドアへ視線を向けた。
がらがらと引き戸が開いて、大輔が顔を見せてくれることを予想していたのに、姿を見せたのは俯きかげんの良太だった。
「ほら、入れ」
ドアの影から大輔の声が聞こえて、今日は大輔は一人じゃないんだと思った。
あくまでも下を向いたままの良太と視線をわざと逸らすようにしている環が入ってきて、大輔が最後に入ってくると、ドアを閉めた。
「あ……」
少しだけれど、良太の唇の端が赤くなっていて膨らみをもっているように見えた。
「良太も僕と同じ?」
あいつらにやられたのか、と思った。
「いや、違うこいつは――」
大輔が否定して口を濁す。
良太は手を当てて隠すようにして、環ははっきり分かるぐらい顔を逸らした。
「べらべらといらないことを言うからだ」
環が不服そうに言う。
「――僕は何も言ってないよ。ただ、連れていかれて、こいつかって聞かれて――」
良太は困ったように口を噤んだ。
あの時だ、と思った。良太は確かに何も言わなかった。
「うん。良太は何も言わなかったよ。認めたのは僕だよ」
訳がわからないまま認めたことになるのだろう。あいつらにとって、本当に目的のやつだったかはどうでも良かったのかもしれない。良太が知っているやつ、そ れだけで良かったんだと思う。
「じゃあ、なんで、あいつらが陸のこと知ってたんだよ」
環が苦々しい声を出す。
「知らないよ。僕だってなんであいつらが陸のことを知ってるんだって思ったんだ」
良太の声は泣きそうだった。
大輔は小さく息を吐いた。
「陸の前で言いあうことじゃないだろ」
「だってよ――」
環が大輔に噛み付くように言う。
「はっきりしないと、収まりはつかないみたいだな」
「当たり前だろ」
環は大輔を睨み、良太は更に顔を伏せた。
「ここだけの話にしてくれ。犯人探しはしたくない」
大輔の言葉に、環は驚いたように目を見開き、良太もはっと顔をあげた。
「母親の筋からの話が伝わったらしい。誰かが故意にあいつらに言ったわけじゃない。単なる世間話の延長が発端なんだよ。誰かが悪いわけじゃない」
大輔が諭すように言う。
環の顔から力が抜けた感じがした。
「もう、いいんだ」
陸が言うと、環が視線を向けてくる。
「助けてくれて……ありがとう」
環が助けてくれなければ、自分はどうなっていたか分からない。
表面的な暴力だけでなく、体の内側まで暴かれるなんて想像しただけでもぞっとした。
環は宙を見上げると、
「こいつが陸の鞄を抱えて泣き付いてきたからな」
良太を示すようにあごをしゃくった。
そういえば、と思った。鞄の存在を忘れていた。
「良太も……ありがとう」
「僕……」
ぶるんぶるんと良太が頭を振る。
「一番に役に立たなかったのはこいつだ」
環が大輔を睨むと大輔は苦そうに顔を歪めた。
「もう、いいんだ」
陸は頭を振った。
一番大切なものを手に入れた。
それを声を大きくして言うことはできないけれど、自分は分かっている。
「お前は、こいつには甘いよな」
環がぼやくように言う。
困った顔をして大輔は小さく笑った。
――仕方ないじゃん
ぼやきは心の中だけにした。
今日はキスしてもらえないのかな、と思ったら少し切なかった。
毎日会えるだけでも夢のようだと思うのに、わがままだなと思う。

少し話をして、大輔が時計に視線を向けたことに、陸はどきっとした。
もう帰るんだと分かる。
まるで合図のように、いつも同じ。
時計を見て、
「戻らなきゃな」
大輔はいつもと同じ台詞を言った。
「ほら、お前らも」
環達に行くぞという仕草をする。
「あ、じゃあ、また来てもいい?」
良太がおそるおそる聞いてくる。
「あ、うん。大歓迎だよ。退屈してるから」
宿題とぼんやりすることしかなかった。
「ほんと、じゃ、また」
良太はうれしそうに笑った。
「俺も付いてきてやるよ」
環が言うと、良太は不思議そうな顔をして環を見た。
「その方が、お前も安心だろ?」
「そうかも……でも」
良太が手を口元へ持っていく。
「悪かったな」
すっと視線を逸らして、でも、環は謝罪の言葉を口にした。
「今度からは、ちゃんと話を聞いてくれよ」
良太が文句を言う。不服そうに面倒くさげに環は視線は逸らしながら頷いた。
良太は環を怖がっているだけじゃないのかな、と陸は思った。
二人の間に流れる空気は険悪には思えなかった。


ドアが閉められて、人がいなくなって、急に寂しくなって、しばらくぼんやりした後、宿題でもやるかと陸がノートを出すと、ノックの音もなしにドアが開い た。
――え?
磁石が入っているのか、自然に閉まることはあっても、力がかからなければドアが開くはずはなかった。
――誰?
息を呑んでドアを見守り、覗かせた顔を見て陸は体の力が全部抜けた。
「大輔さん……」
「役立たずだけど、入っていいか?」
遠慮がちな言葉に思わず陸は笑ってしまった。
環に言われたことを気にしているのかな、と思う。
「うん。いつでも」
ずっといてくれてもいいくらいに思っていた。
「渡すのを忘れたから」
ポケットから小さな包みを出す。それはいつもと同じものだと分かった。
――ホントに?
疑問は聞かないでおいた。
二人きりになりたかったから、わざと忘れたのだと思いたかった。
手のひらに載った包みを目の前に差し出されて、陸は手ごと両手に包み込んだ。
「陸?」
「役立たずなんかじゃない」
傍にいてくれるだけで、こんなに胸が熱くなるのはこの人だけだった。
「もうひとつ忘れものがあるんだ」
あごに手をかけられて、上を向かされた。触れた唇はすぐに離れてしまったけれど。
いいのかな――そう思えるほど満たされるものを感じた。

back | top | next

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル