太陽はだいぶ傾いていて、けれどまだ完全には落ちてはいなかった。
とりあえず安心したと言った大輔は署の入り口で見送ってくれた。
後ろ髪を引かれるように陸は何度も振り返って、その度に大輔は手を振ってくれた。
ずっと見送ってくれていて、角を曲がって見えなくなってしまったとき胸がすっと冷たくなった。もう会うこともないのかもしれないと陸は思った。
はっきりと拒まれたのだから、これ以上付きまとうことはできない。
「こんな無謀なことしたのって、あいつの所為?」
隣を歩く環が視線を向けてくる。
陸は答えられなくて、顔を伏せた。
「やっぱ、そっか」
環が大きくため息をつく。
そして、
「相手があいつじゃ、勝ち目はないな」
ぼそっと呟いた。
陸がふっと顔をあげると、環は横目でちらっと陸を見てきて空を見上げた。
「まあ、がんばれよ」
投げやりのように環は言ったけれど、言葉は陸の胸の中にすっと落ちてきた。
「……ありがとう」
初めてもらった応援だったから、もう望みはないのだとは言えなかった。
「何のこと?」
良太がきょとんとしたように言う。
「お前はいいんだよ」
環が良太の頭を押さえつける。それは一見乱暴に見えたけれど、その実、力は入っていないのだろうと思った。



平穏な毎日は過ぎていく時間がのんびりに思う。
大輔からは何も言ってこなかったし、陸から会いに行くこともなかった。
「陸、夏の講習どうする?」
後ろの席に座った隆太郎がプリントに視線を走らせていた。
「ん、考えてない」
陸は勉強がまったくおろそかになっていた。
満点がお約束の漢字テストでは連日隆太郎に完敗で、それどころか、クラスの半分に届いているかも怪しい。
さすがに担任に一度呼ばれて、「どうするんだ」と詰め寄られた。
詰め寄られても、やる気にならないものはどうにもならない。
今までのやる気をどこへ置いてきてしまったのか。
心の中はぽっかり空いていた。
「暢気だな、お前」
隆太郎が呆れた顔をする。
このままの調子で行けば、夏休みあけの期末テストで、もっと呆れられた顔をされるのだろうと思う。それさえ、どうでも良かった。
なんであんなに必死だったのだろうと、ついこの間までのことが懐かしく思える。
片時も離さなかった単語帳も今は机の引き出しでお休みしていた。

「まだ、一年以上あるし」
目標である大学入試はまだまだ先だ。
「そんなこと言ってると、追いつけなくなるぞ」
すかさず隆太郎が苦言を呈してくる。
そんなことは分かっている。あくまで理屈で。
「少しは休みも必要だよ。せっかくの夏だし……」
自分で言っていて、なにがせっかくなんだろうと思った。
「そうだよなあ……海、行きたいよなあ……」
隆太郎がプリントから目を離し、視線を遠くへ飛ばす。
「海、ね」
どうせなら――そう思ったら陸には別の場所が浮かんだ。
大好きな人と行ったところ。
体を切る風が心地よかったとは言わないけれど、もう一度行きたかった、と思った。


陸がぼんやりしているうちに、夏休みの講習のスケジュールは担任に勝手に決められてしまった。
反論しても疲れるだけだし、理由もなかった。
どうせ何もすることがない夏休みだった。
明日から夏休み。
そんな日は教室中がふわふわしているような気がした。
その中で一人だけ沈みこんでいる自分を陸は感じた。クラスの仲間が隆太郎が遠く感じた。
「陸、よってかないか?」
そんな誘いに、陸はかぶりを振った。
家に帰らなければいけない理由もなかったけれど、友達と話をする気にもなれなかった。


いつもと変わらない帰り道。
けれど、太陽の光は高かった。
足を進めれば家に近づく。
ふと気づいた違和感は、バイクの音だった。
不満げな音をたてながらバイクが後を付いてくる。
くすぶるような音はバイク自身がもっとスピードをあげたいと文句を言っているように聞こえた。
何も障害になるものはなくて、昼の住宅街に人が多いわけでもない。
――なんで?
疑問は陸の足を早くした。
それに気づいたようにバイクの音があがる。
訳も分からず走り出した陸を止めたのは、陸を追い抜いて進路を塞ぐように止まったバイクだった。
フルフェイスのヘルメットを被った男が二人バイクに乗っていて、真昼間の公道とはいっても、恐怖心が陸の背筋を走った。
――どうして?
そう思いながら陸にできるのは、そ知らぬふりをしてバイクを避けることだけだった。
「ちょっと待てよ」
後ろに乗っていたやつが、降りてきて両手を広げて陸の進路を塞ぐ。声に聞き覚えはなかった。すっぽりと前を覆うような大男に知り合いもいない。
「……何か用?」
おそるおそる一応口に出してみた。
こっちに用はない。

「だから、ちょっと待てって言ってるだろっ」
低い凄みのある声に陸の体がぴくんと反応した。
絶対知り合いじゃないし、知り合いにもなりたくないやつだと思う。
待っていたら何があるのか見当もつかないけれど、逃げ出すことも躊躇った。相手はバイクなんだから逃げられるわけがない。
しばらくして、後ろから足音が聞こえてきた。
べたんべたんとちゃんと靴を履いてないだろうと思える汚い音はそれだけでどんなやつか想像ができる。
「遅いぞ」
陸の目の前にいるやつが声をあげる。
「こいつが、言うこと聞かないんっすよ」
申し訳なさそうに言い訳をするところをみると、目の前のやつの方が格が上らしい。
「こいつで間違いないんだよな?」
問いかけるような言葉に陸が振り向くと、目に入ってきたのは良太だった。
「良太?」
なんでこんなところに良太がいるのだろうと思う。
良太は陸の声にあわてたように視線を彷徨わせて下を向いた。
「間違いないらしいな」
背後からいやらしい声が聞こえてきて、その後ばかにしたような笑い声が聞こえた。
「何? どういう……良太?」
訳を知る手かがリは良太しかなかった。
けれど、良太は下を向いたまま、体を硬くしていた。
突然、目の前が暗くなって、それはヘルメットを被せられたのだとすぐに分かった。
「あ、やめ」
ヘルメットを取ろうとすると、体が持ち上げられた気がした。
「なんだ、軽いんだな」
せせら笑うように言う。
何かに乗せられて。
「ちゃんと捕まらないと落ちるぞ」
声をかけられた。
「ちょ……」
待って――そう言おうとしたのに、乗せられたものがふっと動いて後ろに倒れそうになって、陸は前にしがみついた。
「そうそう」
後ろから笑い声が混じった声が聞こえる。
しがみついたものには体温があった。
「じゃあ、行くぜ」
エンジンが大きな音をたてて走り出す。風をきるように走るそれは、今まで乗ったことがないものだった。
「どこへ行くんだよ」
「はん? それはお楽しみ」
バイクの前に乗るやつが言う。
それは絶対違うと思う。
あっという間に車通りのある道に出て、今ここで手を離したらどうなるか想像したくもなかった。
どこへ?
なぜ?
良太?
疑問がぐるぐる陸の頭の中には渦巻いて。
――大輔さんっ
最後に浮かんだのは愛しい人の顔だった。

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