「どうする?」
環が周りの連中に目配せする。
一様に彼らは環の方へ視線を向け、それは、またすぐに陸へと戻された。それらの瞳には困惑が見えた。

「大輔さん、もういいんだ」
陸は大輔を見上げて言葉にした。
大塚さんに告げた一日のずれを大輔は読み取ってくれなかった。大切に思っているのは自分ではなくて環なのだと、大輔の行動の端々に感じるものがある。
環に罪をおこさせないため――そうとしか思えなかった。

大輔の瞳にも困惑が浮かんでいた。
それはそうだろう。
こんなところで騒ぎをおこされたら困るに決まっている。
「陸……」
そんなことを言うな、と大輔の目は言っていた。
きっと、自分は甘くて。
本当に好きにされたらその途端後悔するのだろう。
でも、今はそんな無謀な事がしたかった。
「場所を変えようよ」
陸は環に向かって言った。
今、話す相手は大輔じゃない。
「陸っ」
大輔に肩を掴まれて、そのぬくもりは心の痛点を掠めて消えていく。

「……そんなこと言われてもなあ――」
たるい感じで声を出したのは、環じゃなかった。
「なあ」
同調するような返事の後、部屋の空気が緩んだ気がした。
「いいんじゃね。好きにしてくれって言うんだから、好きにしてもらえばいい。お前らの希望全部叶えてくれるってんだから文句ないだろ。な」
最後環は大輔に同意を求めるように言った。
「それは、だめだ」
大輔の声が響く。
「なんでだよ〜」
不満げな声が後に続いた。
「その件については、俺が考えると言っただろ」
「どう考えてくれるって言うんだよ」
声が当事者であるはずの陸の頭上を通り過ぎていく。
「色々当たってみるよ」
「無理だって!」
吐き捨てるような言葉が大輔の後に続いた。
「最初から決め付けんなよ」
「陸みたいなお人よしがそうそう居るわけないだろ」
――え?
話は自分を置いていく。陸が大輔を見上げると、ちょっと待てと言っているように大輔は手で遮った。
「それは、それ。今は陸に言いたいことがあるんだろ。そう言うから陸を連れてきたんだ。まず、そっちが先だろ」
大輔の言葉に一瞬シーンとなって。
「……俺、十番以内取れなかったんだよね――」
最初に出たのは言われるだろうと思っていた言葉だった。
「だから、今度は化学を教えて――」
「だからっ」
大輔が言葉を遮ろうとする。
――は?
「ちょっと待って」
陸は大輔を押さえた。話は自分の予想とははるか遠くに行っているような気がした。

「えっと――」
今確かに教えてと言われたような気がした。
「俺は英語!」
「俺、物理」
「だから、そんなの無理だろ!」
大輔が割って入ってくる。
「好きにしていいって本人が言ってるんだぜ」
声は勝ち誇っていた。
「だから、そっちは俺がなんとかするって言ってるだろっ」
大輔の声に苛立ちが混じる。
「ふーん。警察ってところは人が真面目に勉強しようかっていう気を殺ぐところなわけ?」
嫌味ったらしい声に大輔は反論できずにいた。
「教育委員会にたれ込んだら、うまくないんじゃねえの?」
相手の方が完全に優位に立っていた。

「約束は守るよ」
陸が言うと、視線は陸に戻ってくる。ぼこぼこにされるわけじゃないらしいと思うと少しほっとした自分がいた。
「できるわけないだろ」
大輔が顔をゆがめていた。
ただ、今は相手の言い分を聞かないと収まりそうにない。好きにしていいと言ったのは陸本人だった。
「できるかできないか決めるのはやってみてからでも遅くないでしょ?」
他人の気持ちを変えることに比べれば、勉強を教えることなんて酷く簡単なことに思える。
答えは必ずあって、それは教科書や参考書に絶対載っている。

「しかし――」
大輔は難しい表情を崩さなかった。
「やる気になってくれたのなら――だって、それが一番難しいよ」
「ん――」
難しい顔で大輔が唸った。
「――俺一人で決めることはできないから、保留にさせてくれ」
渋々いった感じで形だけ了承したようになった。

「ひゃほおう」
「絶対だぞ」
「だめだったら、教育委員会だぞっ」
机や椅子をがたんがたんと鳴らしながら、叫び声をあげる。
「じゃあ、後は環がまとめてくれるんだろ?」
かけられた声に、
「ああ」
環は笑いながら答えた。
一週間しか経っていないのに、環の笑顔が変わったと思った。
以前は不気味で気持ち悪いと思っていたのに、今はそんなことをかけらも感じない。
「じゃあ、俺たち帰るよ」
がたんがたんと席を立っていく。
「お前ら、ちゃんと帰るのか?」
大輔が突っ込みを入れた。
「ああ、家の待遇が良くなったからな」
一人が大輔に向かって言うと、通リすがりに陸の頭をくしゃっと撫でた。
「お前のおかげだよ、サンキュ」
口元を緩めて、部屋を出ていく。
「そうそう、うちなんかポテトチップ食べ放題になったぜ。勉強してくれんならって毎日好きなもんのオンパレードだよ」
軽く陸の体にパンチする。
「うちも!これからもよろしくな」
肩をぽんと叩かれる。
うちも、うちもともみくしゃにされて、でも、陸は嫌だとは思わなかった。

嵐が去った後で、残ったのは良太と環だった。
「僕は十番以内に入ったよ―― ぎりぎり十番だけどね」
良太が照れたように頭を掻きながら言う。
「ホント? 良かった!」
正直陸はそれだけしか考えていなかった。
ほっとして自然に視線が環に向いてしまった。
それを見たように環が紙飛行機を投げてくる。胸を刺すように飛んできたそれは、答案用紙だと一目見て分かった。
「それで文句ないだろ?」
環が言い捨てる。
ゆっくり開いてみると、丸印ばかりの紙には赤インクで満点の文字が躍っていた。
「あ……」
文句はない。
これが環との約束のはずだった。
「久しぶりに問題を解いた後の爽快感を感じたよ。ちょっと、いや、だいぶ、物足りなかったけどな」
「うん」
そのはずだと思う。
さっと見てまったくの基本問題ばかりだった。
「なんか、今までやってきたことがばからしくなってきた」
「うん」
分かっていたはずだ。ただ、そのことを見なかっただけだろうと思う。
「良かったな」
大輔が頭を撫でてくれる。
今まで嬉しく感じていた大輔の手のぬくもりを、陸はひどく切なく感じた。
「……うん」
無謀なカケには勝ったけれど、大切なものを失ってしまっていた。

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