終わった後、陸は白板を消していた。
さっきまでいた連中は、机や椅子を蹴り倒して、訳のわからない叫び声をあげながら、部屋を出ていった。
決められた時間は一日二時間。それでもよっぽどストレスが溜まるらしい。
二週間も、我慢できるんだろうかと思う。それでも、それは約束だ。その間、身の危険はないはずだ。ああいった態のやつらは結構約束ごとに弱いらしい。
環が出ていくのと同時に大輔も部屋を出ていった。
二人の姿に少しの寂しさが陸の胸を過ぎっていった。

「あの……」
陸は背後から小さな声をかけられた。
「え、何?」
声だけで誰か分かった。振り向くと後ろには予想通り良太がいた。
「あの……」
俯き加減に、同じ言葉を繰り返す。
「何? いいよ、遠慮しなくて」
仕草からも、態度からも、声からも、本当にこいつは環の仲間なのかと思う。
「あの……」
さすがに三度目は返す言葉にも困った。
どうしたものかと思っていると。
「……家でもやりたい……んだけど……」
更に小さく掠れた声で、良太は呟くようにぼそっと言った。
「え?」
陸は驚きが声になってでた。
「……家でも……」
聞こえなかったと思ったのか、良太はもう一度言葉を繰り返した。けれど、それは途中で途切れた。ごくりと喉を鳴らす音が聞こえ、小さなため息になった。
そして、踵を返そうとした。
「ちょっと待って」
陸は良太の腕を掴んだ。
「いいんだ、どうせ僕なんて……」
下を向いたまま投げやりに言う。

「ちょっと待ってよ。問題集なら貸すから」
まさか、そんなことを言われるとは思っていなかっただけだ。ここだけじゃなく家でもやってくれるなんていうのは大歓迎だった。
部屋を使っていいのは夕方の五時半から二時間だと言われた。二時間は長いように思えて短い。
「でも……やっぱり、いいや」
後ろを向いたまま良太は足を一歩出そうとする。
「なんで? 数学は解けば解くほど身につくよ。その気があるなら、絶対できるようになる」
「それは……できるやつだから言えるんだよ」
声からは諦めが読めた。
「僕だって、できなかったよ」
「嘘だろ。その制服――――」
良太が不満げに口を濁す。
確かに、一応試験があって進学校の部類に入る学校に通っているから、それなりの実力はあるだろうと世間は見てくれるとは思う。
けれど。
「僕は小学生の時全然勉強ができなくて、ホント先生が呆れるぐらいできなくて、分からなくて、国語は適当にひらがな書いて算数は適当に数字埋めてたよ」
それは事実だった。
「……そんなやつが受かるわけないだろっ」
良太が手を振り切ろうとする。
良太に振り切られないように、陸は良太の腕をぎゅっと握った。
「本当だよ。でも、三年の時の先生がすごくいい先生で、付き合ってくれたんだ。分かるまでずっと」
しつこいぐらいに。あの時は面倒だとも思った。
「ずっと?」
良太がゆっくりと振り向く。
「うん。割り算の筆算が分からなくて、でも、ひとつづつゆっくり教えてくれて、何回も何回も繰り返して。今じゃ普通にできるけどね」
良太が呆れた顔をした。
「割り算の筆算くらい、僕だってできたよ」
「なら、できるよ。誰だってやらないでできる人なんていないんだからさ」
どんなに頭がいいやつでも、何も知らなければできない。
「でも……」
良太が不服そうに口を尖らせた。
「そりゃ、集中力が勝ってたり、記憶力が勝っている人の方が有利だけど、でも、一番になる必要はないじゃん。一番は確かにかっこいいけど、上に人がいたっ ていいじゃん。自分がやりたいことができれば、入りたいところに入れれば、いいじゃん」
一番に拘ったときもあったけれど、今は違う。
今でも一番になりたいものはあった。
それを手に入れることができるのなら、なんでもやると思うけれど、それは努力じゃどうにもならない。
そう思ったら、他のことは楽に考えられるようになった。
二番だからって学校をやめろと言われることもなければ、クラスを追い出されることもない。仲間が急に冷たくなることもない。
良太の腕から力が抜けた。
「……僕も、できるようになるかな」
呟いた良太に。
「うん!」
陸は力強く頷いた。


一番薄い問題集を良太に渡して、陸が倒れた机や椅子を直していると、最初は見ていただけだった良太が躊躇いがちに手伝ってくれた。
「環さんとは仲いいの?」
なんとなく、陸は良太に聞いてみた。
「小学校が一緒なだけだよ」
それだけ?
そうとは思えない。あの叱責はきっと良太のことを考えてのことだ。事実、あれから良太はやりだしたのだから。
「じゃあ、なんでここに?」
他の連中はいつもつるんでいる仲間だろうと思う。
「僕が、バカだから」
「は?」
それが全ての答えになると思っているように良太は使う。
「講義を受けて十位以内になれなかったら、きみを好きにできるんでしょ」
良太がためらいがちに見上げてくる。
「あ、うん」
それは環限定のつもりだったのに、相手の方が一枚上だった。
「びりの僕が十番以内なんて絶対無理だから。だからだよ」
――――びり?
なるほど、と思いながら理由はそれだけではないような気がした。
良太の言う通りなら、それこそ、良太がやる気になったらマズイわけで。
あの時はそのまま見過ごすのが賢いのだろうと思う。
「別に僕は誰かを好きにしたいなんて思わないし……」
「ん」
そうそう簡単にそう思っては欲しくない。
「でも、逆らえないから……」
「ん」
あの風貌は敵にはしたくないと思う。
「仕方なく、だよ」
良太の言葉に陸は少し罪悪感を感じた。自分のわがままの被害者かもしれない。
でも。
「でも、きっと無駄にはならないよ」
ならないで欲しいと思う。
「……だと、いいけど」
良太は下を向くと、小さく呟いた。

二人で机と椅子を直し机の上を雑巾で軽く拭いていると、突然開いたドアから大輔が入ってきた。

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