部屋の後ろで大輔はパイプ椅子に座って腕組みをしていた。
陸は簡単な説明をすると、白板に問題を書いてやるように指示をした。
大輔がいるからか、部屋は静まっていて、けれど、時折舌打ちの音や、頭をかきむしるような音が響く。
「分かる?」
陸は一人に声をかけた。
そいつは一瞬体をびくんとさせ、恐る恐る顔をあげた。
今時あるのかと思うような黒ぶちめがねをかけ、見るからにおどおどしている。昨日は終わりだというと、真っ先に部屋を出ていったやつだった。
「僕、バカなんです」
――――え?
陸は直接的な言葉に少し驚いた。
それは、分からないと言っているのかな、と思う。
「どこが分からない?」
陸はそいつのノートを覗き込んだ。
書かれているのは問題だけだった。因数分解の初歩の初歩。九九と足し算が分かればできる問題のはずだった。
「だから、僕はバカだから、教えてもらっても無駄なんです」
――――は?
陸が呆気に取られて返事をできずにいると。
「良太っ!」
環の叱責が響いて、陸の目の前のやつは顔を伏せ文字通りを体を小さくした。
良太って言うんだ、と陸は思った。
誰の名前も聞いていなかった。聞いたところでちゃんと答えてくれるか分からなかったし、そんなことで時間を潰したくもなかった。
ふと環を見ると、良太を睨んでいて、でも、陸に気づき机に肘をつくと頭を支えるようにして顔を伏せた。手にシャーペンの類は持っていなくて、指で紙に何か
書くような仕草をしている。つまらなくて指遊びをしている、という印象だった。
それでも環は今日の分だとノートを持ってきてくれた。授業中やった問題のやり方と答えも書かれていて、ちゃんと分かってるんじゃん、と確信が持てた。
環の真意がぼこぼこにできるやつがいることだったとしても、試験には出席するだろうから、というか出席しなきゃ結果はでないから、出るだろうとは思う。で
きる問題を目の前にして白紙で出すことは、自分のプライドとしてできるのだろうか、と思う。答案用紙を埋めてくれることに陸は期待はしていた。
そして。
誰か一人だけでも真面目にやってくれる人はいないかと思って、目をつけたのが良太だった。
なぜここに居るのだろう、と、どこか行くところを間違えたんじゃないかと最初は思った。というか、最初は気がつかなかった。数え直してみたら、人数にも
入っていなかったので、結局総勢19名ということになった。
きっと、最初は誰かの後ろにでも隠れていたんじゃないかと思う。
この中にいたら、絶対パシリに使われそうだと思うのに、そうでもないらしい。昨日今日の二日間だけだけれど、誰かと話しているとか苛められているとかを見
ていない。
どちらかというと避けられているような印象だった。
「とりあえず、やってみて」
陸が言うと、良太はシャーペンを持ち替えた。環の一言は大きいらしい。
けれど、先に進まない。本当にどうしたらいいのか分からないみたいだった。
「やり方、説明したよね?」
陸が確認すると。
「……分からない……」
良太はやっと聞こえるようなぼそっとした声で答える。
聞いていなかっただけなのか、聞いていたけれど分からないのか、判断がつかなかった。
「じゃあ」
陸は良太の隣の席に座った。ヤニ臭くないのが幸いだった。
「例えば――――」
良太が書いていた問題の横に、少し数字を変えた問題を書いた。
「ここがこうでこうなって……」
ひとつづつ、順をおって、手順を書いていく。ひとつ問題を解き終わって、良太が首を傾げたので。
「同じやり方でね」
もう一問違う数字の問題を作って答えを解いてみせた。
「え?」
きょとんとした顔で、良太が顔を向けてくる。
「やってみて」
陸が言うと、たどたどしく陸がやったものを見ながら答えを書き始めた。
「そう、できたじゃん」
「あ……」
少し良太の顔が緩んだ気がした。
「じゃあ、もう一問やってみよう」
同じ系統の問題を書いて。
それができたら、また数字を変える。しばらく繰り返していると、解ける時間が早くなってくる。
「じゃあ、続きやってみて」
声をかけて陸が席を立つと。
「あ、うん」
返事を返してきた良太の声が違っていた。
時間はないけれど、焦っても仕方がない。
問題だけを書いてぼっとしていたやつがかりかりとシャーペンを動かす姿はちょっと嬉しかった。
一人でも。
そう大輔が言っていた。
良太がその一人になってくれればいいな、と陸は思った。
一人一人見ていくと、真面目にやっているとはほど遠くてなぐり書きような文字が並んでいても、ちゃんと答えはあっていたりする。
剃りの入った目つきの悪いやつに何だよ、というような視線で見上げられても、不思議と怖くなかった。
それは絶対大輔の存在が大きい。
大輔がいなくてこれだけの人数に囲まれたら、逃げ帰って布団の中で震えていたかもしれないと思う。
大輔がいる。見ていてくれる。
本当なら、大丈夫だから仕事に戻っていいよ、と言わなきゃいけないのかもしれないと思う。
でも陸はそれを声には出せなかった。