陸は足が止まった。
流れ出した涙がなかなか止まらなかった。
ずっと押さえつけていたものが温かいぬくもりで溶かされるように流れていく。
「陸?」
ニ三歩先に行ってしまった大輔が振り返ると戻ってきて顔を覗き込んできた。
陸は何も言えなかった。
「参ったなあ……」
大輔が体を起こしぼやく。
困らせていると分かっているのに涙は止まらない。
「……っく……」
陸は自分でも涙が止まらないわけが分からなかった。
どんなに辛いと思っても泣いたことはなかった。
訳の分からない世界に一人居たときも、涙は出てはこなかった。泣いたところで何も解決しない。
それは今も同じなのに。
溢れ出すものを抑えることができない。
「……っう……」
辺りは暗くて駅から少し離れた住宅街に行き交う人は少ない。それでも、通り過ぎる人の足が遅くなるのが見える足元で分かった。
戸惑うように遅くなった足は少し遠巻きにするように、そして歩調が速くなって通り過ぎていく。
「陸……」
困ったような声を出し、大きな手ががしがしと陸の頭を撫でる。
ぬくもりを直に感じる。
――――こんなことじゃいけない
そう思って陸は足を一歩前に出した。しゃくりあげながら、それでも自分の足で歩かないと前には行けない。
「……お前を責めてるわけじゃないよ」
大輔が戸惑ったような声を出す。
責められていると思ったわけじゃなかった。
「……ん……」
分かってる――――そう言いたかったけれど、出せる声は一言だけで、それだけで胸が苦しくなってくる。
「ただ、俺はお前が心配なだけだ」
「……ん……っ」
それも分かっていた。
「だから、あんなことはやめろ。俺が環に話を通してやるから」
大輔の言葉に陸は頭を振った。
やめてどうしろと言うのだろう。
ただ名前を覚えてもらっているだけの、そんな関係から進むことはできない。
もし、環が考えを変えてくれたら、そうしたら、大輔との間が一歩縮まるような気がする。
頭上から大輔のため息が聞こえた。
「お前、本当に頑固だな」
――――好きだから
そう声を大きく叫ぶことは今はできない。
自分は男で大輔も男で、ごく一般的な性的指向からは離れている。今、告白したところで受け入れてなどもらえないと思う。
今は近づきたい、一歩でも。
視界に入れてもらえる時間を一秒でも長くしたい。
大輔はもう一度ため息を零すと、
「自分の意志を通したいのなら、泣くな」
と呟くように言った。
その言葉に陸は小さく頷いた。
泣きたいわけではなくて、今すぐ涙は止まらない。けれど、泣いていてはいけないのだと思う。
この人をこれ以上心配させちゃいけないと、陸はゆっくりと大きく息を吸った。
「大丈夫か?」
大輔がズボンのポケットからハンカチを出し、けれど、そのまま、またポケットに戻そうとした。
「いつ洗ったか分からないようなハンカチなんて使えないよな」
ぼやくように言う。
陸は頭を振ると、大輔の手にあるハンカチに手を伸ばした。
「洗って返すよ……」
大輔の手からハンカチ取ると、ぎゅっと握った。ハンカチを握った手の甲で涙を拭って、その手を唇に寄せた。
「それじゃ、意味ないだろ?」
大輔が怪訝そうな声を出す。
「ううん……ちゃんと意味はあるよ」
大輔が身に付けていたものが手の中にある。そう思うだけで不思議と気持ちは落ち着いた。
下を向きながらとぼとぼ歩いていると住宅地を抜け、視界が開けたところに中層のマンション群がある。
「家に来て、お茶でも飲んでいかない?」
もう少し一緒にいたいと思っても、そんなことしか思いつかなかった。
「いや」
軽くかぶりを振って、大輔は陸の頭をくしゃっと撫でた。
「困ったことがあれば、俺に言えよ」
「ん」
わがままを言っているのに、優しい言葉をかけてくれる。
「今日は早く寝ろ」
「ん」
温かい声が心の奥に沁みていく。
敷地の入り口で短い会話を交し別れると、大輔は立ち止まって見送ってくれていた。振り向くと早く行けとばかりに手で追い払うようにする。
手には大輔のハンカチがあった。
陸はハンカチをぎゅっと握ると胸元へ持っていった。大輔のカケラを握っているような気がした。
次の日。
陸がいつものように大輔のところへ行くと、前日話をした部屋の前に渋い顔をした大輔とにやにやと不気味な笑顔をたたえた環が揃って立っていた。
「陸――――」
何かを言おうとした大輔を制するように環が前に進む。
「待ってたよ、センセ」
環の意味ありげな笑顔とたばこ匂いに思わず陸は顔を歪めた。
「こっちこっち」
環が陸の背中を押し、少年課の部屋の隣にある会議室のドアに手をかける。
いやにサービスがいいんだな、と不審に思ったけれどその答えは開けられたドアの先にあった。
誰もいないはずの部屋に、だらしない服装をしたやつらがひしめいていた。
「環ぃ、待ちくたびれたぜ――――え、こいつか?」
「へえ」
「面白そうじゃん」
口々にいやらしい声を出す。
コの字に長机が並べられている中、机の上に乗っているやつや、下に座り込んでいるやつや、椅子に座ってふんぞり返っているやつらがにたにたとした笑いを浮
かべていた。
こいつらは誰と思うとともに、なんでいるんだと思った。
大輔に聞こうと陸が振り向くと視界は環に遮られた。
「こいつらも、10位以内に入りたいって言うから面倒見てやってよ、センセ」
環が意味ありげな笑いを浮かべる。
ざっと見て、10人以上はいると思った。
「俺だけとは言っていないよね」
勝ち誇ったような環の顔を見て、やられたと陸は思った。
「好きにしていいんだって?」
厭らしい声がして視線を向けると、長机に座っていたやつが下から舐めるように見上げてきてにやっと笑った。
「楽しみだね」
まるで、好きにすることが決まったように言う。
陸は背筋がぞくっとした。初めて感じた恐怖だった。
陸の気持ちなどお構いなしに、環がすぐ近くの机からファイルを取り上げると陸に差し出してきた。
「これが、今までのテスト問題。試験は2週間後。ノートはおいおい、な」
環がこれで文句はないだろ、と言いたげな顔をする。
絶対無理だ、と思った。
そりゃ、全員が満点を取ればありだけれど、そんなことはあり得ない。
陸は、自分が甘かったことを思い知った。