真っ暗な空に薄い雲が浮かんでいて、その裏で丸い月が霞んでいた。
体の中でとくんとくんと響く心臓の音がうるさかった。
道路脇の街頭が足元を照らす。隣を大輔が歩いていた。
何も会話はなかった。時々、大輔が小さいため息を零す。
そのため息をつかせているのは自分だと思うと、陸は申し訳ない反面嬉しかった。これだけ気にかけてもらえたのは初めてだと思う。
何か話がしたいと思っても、何も浮かばなかった。
はぁ――――声にならない何度目かわからない大輔のため息が聞こえて。
「ごめんなさい」
陸は謝っていた。
「はぁ――――……」
答えてくれたのは、深いため息だった。
「大丈夫だよ。心配しないで」
気にかけてくれることが嬉しい反面、申し訳なく思う。
「……あぁ……」
声が混じって、けれどくたびれたような声は安心したわけじゃないと思う。
けれど、このまま別れることも躊躇われる。少しづつ、歩を進めるごとに家は近づいていた。
大塚さんが送ってくれるときは車だけれど、大輔は車を持っていないらしい。もれ聞く話からしても、大輔が私用で車を使うことはなさそうだった。
「お前は環を甘く見てるよ」
大輔はぼそっと言った。
「え?」
「あいつはバカじゃない。勉強なんてその気になればできるはずだし、真面目に試験さえ受ければ10位以内なんて楽に入れるはずだ」
「は?」
「あいつは中学三年になるまで何の問題もないやつだった」
そう言って、大輔が言った環の通っていた中学の名前は陸も知っていた。中学受験でどちらも合格をもらい、選ばなかった方の学校だった。
ランクとしては環が通っていたという学校の方が高かったけれど、自由な校風を陸は選んだ。もうひとつは受験まっしぐら、そんな学校だった。
「そんな……」
あり得ない、と思った。もし、大輔の言うことが本当ならば環自身今自分がやっていることがどれほど馬鹿げているか知っているはずだ。
「何かろくでもないことを、きっとやつは考えているよ。それが心配なんだ。だいたい、試験なんて白紙で出されたらおしまいだろ? 今からでもやめた方がい
い」
「でも……」
白紙のことは考えなかったわけじゃない。
「あいつは、絶対お前をぼこぼこにする気だぞ」
「でも……」
今更自分から言い出したことを引っ込めたくはなかった。
「お前、ぼこぼこにされたいのか?」
大輔が訝しげな声を出す。
「そういうわけじゃないけど……」
正直ぼこぼこにされた経験があるわけじゃないから、甘く考えているのだろうと自分でも思う。
「お前が付き合っている連中とあいつらは違うんだ」
そんなことは言われなくても分かっていた。
「でも、始めから諦めていたら何もできないよ」
せっかく出会えた大輔のことを諦めたくはない。そう思うなら何かするしかない。このままでいたらただ少し言葉を交わせるというだけで終わりになってしま
う、確実に。
「それを、お前がやることないだろ? お前は社会の中でちゃんと生きていけるやつだろ? なら、こんなところに居ちゃいけない」
「大輔さんは、いるのに?」
悲しくなってきた。自分は傍にいてはいけないのか、と思う。せっかく出会えたのに。苦しくなるほどの思いがあるのに。
「俺は仕事だ」
大輔が憮然とした声を出した。
「そういう仕事をわざわざ選んだ、んでしょ?」
そう大塚さんが言っていた。
キャリアと言われるエリートで、花形と言われるようなところへも行けたのに、地味なくせに大変なこの職場を自分から望んだのだと。
「お前には関係ないだろ?」
冷たく聞こえた言葉に目蓋が熱くなってきて、陸は顔を伏せると唇を噛んだ。
関係ないと言われたら返す言葉はない。
「だから、もうやめろ」
大輔の言葉が追い討ちをかけてくる。
陸は頭を振った。
「陸?」
「大輔さんに迷惑はかけないよ」
たとえぼこぼこにされても、それは自分が言い出したことだ。
「お前ね……」
大輔が大きくため息をつく。
ぼこぼこにされてもいいや、と陸はふっと思った。
諦めがつくかもしれない。ぼろぼろの雑巾みたいになったら、大輔は自分には手が届かなかった人なのだ、と諦めることができるかもしれない。
「僕が言い出したことだから……結果はどうあれ最後までやりたい」
このまま手を引いて環が納得するとは思えない。それを全て大輔に押し付けるなんてことはできない――――絶対に。
「お前、頑固だな」
大輔が呆れたような声を出した。
「……うん」
手が届くところにいるのに、その人はとても遠い。その人に少しでも届くなら、がんばってみたいと思う。
「でも、悪いことばかりじゃないでしょう? 試験が終わるまでは環さんを捜しに行かなくても済むよ?」
陸はおそるおそる大輔を見上げた。
暗くて顔は良く見えなかったけれど、間には呆れているような空気が漂っていた。
「まさか、そのため、とは言わないよな」
大輔がふっと思いついたように言う。
陸は返事ができなかった。違うと言って、言える言い訳も思いつかない。
何も言わず、大輔は陸の頭をくしゃっと撫でた。
「香織が言っていたけれど――――」
大輔が言い始めた言葉を止めた。
香織というのは大塚さんのことで、大輔は名前で呼ぶ。まさか仕事上の上司までそうだとは思わないが、苗字は仰々しいからと名前で呼ぶ主義らしい。
自分を名前で呼んでくれることは嬉しいと思っても、他の人をそれも女の人を名前で呼ぶことは余計な詮索をしてしまう。きれいな人なら余計に。
「俺のこと……いつも心配してくれてたらしいな」
大きな手が触れていて、それは温かかった。
「お前に心配されなくても、俺は大丈夫だよ」
かけてくれる声は優しかった。陸は胸が熱くなって、それは滴になって頬を流れていた。