キスとジェットコースター
陸は薄暗い廊下の端に置かれたベンチに座りながら単語帳をめくっていた。
「なんだよぉ、俺はよ〜」
汚い言葉が廊下に響く。べたんべたんと気味悪い足音がそれについてくる。
「静かにするんだ」
鋭い声でたしなめられて、目の前を引っ張られるように連れていかれるやつがいる。
声は聞こえていても知らないふりをして、陸は単語を口ずさんでいた。顔をあげて目があったりしたら、睨まれるだけだ。
下手したら因縁をつけられて、すごまれる。
経験から無視がいいのだ、と結論づけた。
もちろんそれは上辺だけで、単語なんて頭には入ってこない。
少年課と書かれた札がある部屋の前で、こうやって人を待つことは陸の日課になっていた。
陸が酷く珍しい体験をしたのは、一ヶ月ほど前だった。
次元を越えた旅で得たものは一人の人に対する思い。それは叶うことはなかったけれど、同じ次元にその人は存在するかもしれないという可能性はあった。
そして、その人はすぐに見つかった。
県警少年課の柏大輔。年齢二十五歳。妻子なし、恋人もなし。ついでに作る気もなし。
いつもどこかへ行っていて、掴まえるのは並大抵のことじゃない。捜しに行きたくても大輔がいるところは補導されかねないような場所ばかりで、実際補導もさ
れかけた。
管轄の署へ連れてこられてそこに大輔が来て、散々怒られてもうしないと約束をさせられた。だから、いつ帰ってくるか分からない人をこうやって待っているし
かな
い。
帰ってくればいい方だ。
そのまま夜の見回りに行ってしまうときもある。そんな時は強制送還になる。
一人で帰ると言っても許してくれない婦警の大塚さんに何度送ってもらったかは分からなかった。
「ふぅ――――」
ため息がでる。
会えたと思ったのに、そこから先は一歩も進まない。
ふいにドアの音がして、顔をあげると部屋から大塚さんが出てきた。
「今日も、戻ってこないかもしれないわよ。早く帰った方がいいんじゃない?」
前に立って腰を折り、顔を覗き込んでくる。完全に子供扱いだ。
「ね?」
返事を躊躇っていると、念を押してくる。
「もう少し待ってみて……」
遅くなると大塚さんの迷惑になることは分かっているから、強くは出られなかった。
陸が警察のお世話になることにきっかけは、半日ほど姿を消していたからだった。それも昼間だから、学校の休みにどこかへ出かけていたんじゃないかというこ
とで終
わってもいい話だった。
けれど、仕事熱心な大輔は、パジャマが汚れていて血がついていたことや、まっ昼間の人が普通に歩いている時間帯にもかかわらず誰にも見られていないこと
で、真剣に調べてくれた。
検査の結果パジャマについていた血が自分のものではないことが分かり、事件に巻き込まれた、ということになった――――あくまでも、大輔的に。
無事に戻ることはできたが、また、その時の犯人に狙われるかもしれないという心配をしてくれて、夜遅く外出することは控えた方がいいと言われている。
どこでどうしていた? と訊かれて答えられるはずもなかった。
話しても信じてもらえるはずもなかった。
だから、記憶がないと言い訳して、今に至る。
催眠治療なるものもやらされたけれど、結果は同じで、と言うか、最初から記憶はあるのだから結果は変わらずで、思い出したら、教えてくれ、と大輔に言われ
ていた。
「代わりに私が聞こうか?」
大塚さんがにこっと笑う。
「いいえ、大輔さんに」
陸はかぶりを振った。
ここは譲れなかった。だいたい、思い出したことなどない。だから、聞いてくれると言っても聞いてもらうことはない。
「そう?」
大塚さんが怪訝そうな顔をする。可愛げのない子、と思われているのかもしれないなと思った。
大塚さんはそれなりに整った顔立ちをしていてそれにプラスグラビアアイドル並に胸が大きい。クラスのやつらが見たら、絶対涎をたらすだろうとは思う。
こんな人をこんな部署に置いておいて大丈夫なのか、と思ったりもしたけれど、合気道で有段者と聞けば納得する上に、若い子はきれいなお姉さんにびびって
還っ
て手をだしてこないらしい。おっさんの方がずうずうしいと、前に大塚さんが言っていた。
「もう少し待ってみて、戻ってこなかったら帰ります」
大塚さんに迷惑はかけられない、とは思う。けれど、大輔に会う方法は他には無かった。
「そう、待っていても無駄が気がするけど」
大塚さんは階段の方へ視線を向けた。
そう。滅多に会えない。今まで会えた回数は一桁で、それも補導してきたやつを連れてきて、なんだかんだと説教し時にはそいつを家まで送って行ったりするか
ら、「お
帰
りなさい」と「いってらっしゃい」をペアで言ったことも何回かある。
まともに話をしたのはニ、三回で、それも途中で邪魔が入ったり落ち着かない。そのお陰で何も話すことがないことがばれずにいる。
話をする機会があったところで、どう切り出そう。それが悩みの種でもあった。
だいたいこんな忙しい人が付き合ってくれる時間なんてあるのかどうかも疑問だ。
仕事の休みはもっぱら寝てるらしい。か、気になるやつを捜しに行くとか。
気になるやつの中に当然陸は入っていなくて。
会いたいなら、自分から出かけてくるしかなかった。
「うるせえな」
突然、大塚さんの視線の先から大声が聞こえてきて。
「じゃあ、大人しく言うことを聞けばいいだろ」
追いかけるように聞こえてきた声は大輔の声だった。
陸は心臓がとくんと跳ねた。久しぶりだった。ぱさっと何かが落ちた音がして、床を見るとさっきまで見ていた単語帳が床でくてっと寝ていた。
「戻ってきたみたいだけどね」
大塚さんが含みのある声を出す。
そう。
帰ってきたからと言って、構ってもらえるかどうかは分からなかった。