哲平は抱えるように階段を下ろしてくれて、居間のソファに座らせてくれると、温かい紅茶を入れてくれた。
しばらく沈黙が流れて、
「落ち着いたか?」
 哲平が顔を覗きこんでくる。
「ん」
 智也は両手で包みこんでいるティカップに口をつけた。それはまだ、温かかった。

「荷物取ってきてやるから、ここに居ろよ」
 哲平が釘をさすように言い、居間を出ていった。
 哲平の後姿を視線で追いながら、智也は何も言えなかった。

 違うんだ――そんな言葉が喉元まで来て消えていく。
 哲平に知られることは怖い。けれど、このまま遼平を悪者のままにしておくのも気が咎める。だからと言って、恋人だと告白することも微妙だ。哲平がどこま で受け入れてくれるかは分からない。
 それも最初に口にできていればまだしも。今更、告白したところで、じゃあなんでそんな芝居をしたのかと問い詰められたら、答えに困る。八方塞がりだと 思った。

 突然、上から哲平の怒鳴るような声が聞こえてきて、智也は体を丸めた。哲平は本気で怒っていた。今更違うなんて言えない。
 どんどんと階段を下りる音が響き、程なく哲平が居間に姿を見せた。
「もう少し休んで、駅まで送っていくよ」
 哲平は智也に鞄を掲げるようにした。

「せっかくケーキを買ってきたんだ。智也は食べて行けよ」
 哲平は持っていた鞄を椅子に置くと、キッチンへと消えた。
 哲平を友達として最高だと思う。けれど、今、智也の頭の中には遼平しかいなかった。手を握って欲しい。大丈夫だと囁いて欲しい。同じ屋根の下、少ししか 離れていない距離が恨めしかった。

「ほら、お前の好きなモンブラン」
 哲平が目の前に差し出してきた皿の上にはこげ茶色のクリームがデコレーションされてその上に小さな栗がちょこんと乗っているケーキがあった。
「……ありがと」
 智也はティカップをテーブルに置くと、哲平から皿を受け取った。

「ごめんな。あんな兄貴で」
 哲平が沈んだ声で言う。
 智也は無言で頭を振った。
「いいんだよ。そんな気使わなくても」
 哲平が大きく息を吐く。
 そして。
「俺と友達やめるなんて……言うなよ?」
 小さく呟くように言った哲平の言葉に、智也は何度も頭を振った。
 大好きな大切な友達だった。
「もう、分かったよ」
 ぎゅっと哲平に頭を押さえるように抱きこまれて、智也はぎゅっと唇を噛んだ。
 哲平はこんなに良いやつなのに、嘘をつかなきゃいけないことが苦しかった。ちゃんと話したら分かってくれるような気がする。
 でも――。
 
 智也はおそるおそる顔をあげて、哲平を見た。
 ん? とどうかしたか?と目で聞いてくる。今は穏やかで優しくて、けれど、この瞳が侮蔑の色に染まるかもしれない。そう思うと、智也は言葉が出なかっ た。

「少しでも、食べろよ。せっかく買ってきたんだからさ」
 哲平がケーキをゆび指す。
「ん……」
 哲平に悪気はなくて、帰ってきたのが分かっていたのに止められなかった自分達が悪くて、それは、分かっているけれど、智也はいつもは大好きなケーキも憎 らしく思えた。



「本当に大丈夫か?」
 哲平が心配そうな顔で見てくる。
 ケーキを食べた後、哲平は言った通り駅まで送ってくれて、改札を挟みながらさよならの挨拶をして、けれど哲平はまだ気掛かりな様子だった。
「うん。ありがと。大丈夫だから」
 智也は笑ったつもりだった。だけど、自分でもそれがいつもの笑顔と違うことが分かった。哲平が顔を曇らせて、小さく溜息をついた。
「やっぱ、ショックだよな。家まで送っていこうか」
 哲平が改札を回ろうとしたのを、智也は哲平の腕を掴んで止めた。
「ホント、大丈夫だから。ちゃんと帰れるし」
 哲平の気遣いが嬉しい反面、智也は早く一人になりたかった。
「じゃあ、家に着いたら携帯に連絡くれるか?」
 哲平が頭をくしゃっと撫でてくる。
「うん。本当に大丈夫だよ」
 智也は繰り返した。
「あさって、だな。次に会えるの」
「うん」
 明日は日曜日で、全国的に休みだ。
「何かあったら携帯に連絡してこいよ」
「うん」
 哲平が保護者のように面倒を見てくれるのは今に始まったことじゃない。
「じゃあ、行けよ。そろそろ電車が来るみたいだ」
 哲平が電車の時刻を知らせる電光掲示板を指す。
「うん。じゃあね。また」
 手を振ると、智也は足早に階段を下りた。ポケットの中を探り、携帯を取り出し、けれど、それを握り込んだ。
 携帯をかけているところを哲平に見られたらマズイ。
 もしかしたらと思い、智也が線路の脇を走る道路に見回すと、哲平が歩道から手を振ってきた。
 電車が近づいているアナウンスが流れ、ほどなく近づいてくる電車が見えた。
 智也は小さく笑うと、哲平に手を振った。
 心配してくれているのは痛いほどに分かった。けれど、それに答えられない自分が智也はもどかしかった。
 電車に乗り込み、二分ほどで着いた次の駅で降りると、智也はホームの端まで走った。
 携帯の履歴の一番上に繋ぐと、智也は呼び出し音に耳を澄ませた。
 すぐに繋がった携帯は、
「智也?」
 愛しい人の声を流してくる。
「ごめんね」
 その人は自分のために、全て背負おうとしてくれていた。
「いいさ。気にすることはない」
 声はいつもと同じだった。
「会いたい……」
 いつだって傍にいて欲しい人なのに、輪ゴムがぷつんと切れたようにその存在が遠くなってしまった。
「俺だって会いたいさ。だけど、当分は大人しくしていた方が良さそうだな」
 声はいたって冷静だ。
「当分? 当分ってどれくらい?」
 このまま、離れ離れになってしまうのは智也は嫌だった。
「試験で良い成績取ったら、遠出しようって言っただろ? それは、なんとかするよ」
「ホントに?」
「ああ。だから、鬼の居ぬ間に手を抜こうなんてダメだぞ」
 遼平がおどけたように言う。
「うん。がんばるから、約束だよ」
 智也は携帯を握り締めた。きっと、これだけが今は繋がっていられるものだった。
「ああ、だから、携帯にもあんまりかけてこない方がいいな。哲平に気づかれるとやっかいだろ?」
「ん……」
 弾んだ気持ちが一瞬で沈んだ。
 たった一つの繋がりもその用を足してくれない。
「大学を出たら、俺、家でるからさ。そうしたら、遠慮することなんてなくなる。それまで、我慢してくれるか?」
「うん!」
 智也は遼平の言葉に目の前がすっと開けた気持ちになった。遼平の言葉は魔法のようで、たった一言で天へも地獄へも行ける。
 あと少し我慢すれば、ずっと傍に居られるようになる?
 そうなったら、嬉しい。
 でも。
「哲平に酷いこと言われた?」
 仲の良い兄弟だったのに、自分が壊したようなものだ。
「気にすることはないよ。俺は最低な男だ。そんなことは分かってる」
「そんなことないよ」
 いつも優しい人だった。
「でも、そこまでして欲しかったお前がこうやって携帯にかけてきてくれて、嬉しいこと言ってくれるからさ。俺は何言われたって大丈夫だよ」
「そんな……」
 ストレートに好意を返してくれる言葉は少し照れくさい。
「世間の風は厳しいってことを忘れていたよ。良い薬になった」
「うん」
 油断していたのは確かだ。
「一緒にいたいなら乗り越えてみろって、試されてるんだろうな」
「うん」
「試されてやろうぜ」
「うん!」
 ささくれだっていた心が穏やかになってくる。
「哲平が帰ってくるとマズイから、切るぞ」
「あ……」
 智也はふいに心が硬くなった。
 もう終わり?
 この次声を聞けるのはいつか分からない。
「愛してるよ」
 遼平が囁くように言った後、携帯は無機質な音をたて始めた。
 智也の頭の中は遼平が最後にくれた言葉が響いていた。
「ずるいよ……」
 答える時間をくれなかった。
「愛してる」
 声を落として智也は携帯に向かって言った。
 愛してる――だから、誰も間を裂かないで欲しいと思った。


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