愛しい人(大輔の場合)
突然ノインが消えた。
昼食にノインが作った野菜たっぷりヘルシーラーメンを食べ、その後食器を洗っていて、それが終わって後ろを振り向き、椅子に座ろうとしたその瞬間だっ
た。
あまりにも突然で、しばらく何があったのか分からなかった。
気が付かない間に移動したのかと、家の中をノインの名前を呼びながら探し回った。トイレも風呂も部屋のベッドの中も下もクローゼットの中も、台所の流しの
下まで見たけれど、ノインの姿は見つけられなかった。靴はある。外に出たわけじゃない。目の前にいたのだ。一瞬で外へ行くなどありえない。
突然消えてしまう――そんなことになりうることを一つだけ知っていた。
ノインは元の世界に呼び出されたのだ。陸のように。
装置は廃棄されたと言っていたけれど、取り戻したのかもしれない。ならば、ノインが戻れば陸が帰ってくるはずだ。
「陸?」
名前を呼びながら、今度は陸を部屋中探した。東京から大阪や福岡に行くわけじゃない。移動は一瞬のはずだ。
時計を見た。
久しぶりに会って名残を惜しんでいるのかもしれないと思う。
五分待ってみたけれど、何の変化もなかった。ガタリという音もない。
話が弾んでいるのだろうか。
もう五分待ってみた。待っている時間は長く感じる。
いつも自分の方が待たせていたじゃないかと、椅子に座り今度は腕を組んで目を閉じて待ってみた。目を開けると三分も進んでいなかった。
居ても立ってもいられなくて、立ち上がると部屋の中をうろうろ歩いてみた。時計は人の気など知らぬとばかりにここぞとばかりにゆっくりと時を刻む。時間
とはそんなものだ。止まって欲しいと思う時ほど速い。
狭い部屋の中を歩きつかれて、また椅子に座った。
「陸、何やってるんだ」
愚痴がでる。
いつも待たせているのは自分だ。それはよく分かっている。けれど、早く姿が見たかった。姿が見えないことが不安だった。
「陸、早く帰ってこい」
ノインが戻ったなら陸はもう必要ないはずだ。陸が帰ってこない可能性は十分に考えていた。向こうにはデールがいる。身代わりなんかより本物の方がいいに決
まっている。携帯のラインでは帰りたいと言っていたけれど、気持ちなんて不確かなものだ。会わなければ、声を聞かなければ忘れていくものだ。遠距離恋愛が
長く続かないのは遠くに居る人より近くに居てくれるほうが良くなるからだと聞く。何より、近くに居るのは最初に好きになった本物だ。
陸が幸せならば、それも致し方ないと思っていた。陸のいない日常を噛みしめながら、少しづつ自分を納得させてきた。色んな場面を思い浮かべては、思い出
として心の中のページに閉じていった。
ノインも少しづつ生活に慣れてきて、最近は料理を作るのが楽しいと言っていた。それは手ほどきしてくれた早紀のおかげだ。今でも、一緒に買い物に出かけた
り、部屋に来てくれるのを楽しみにしている。美味しいお土産を持ってきてくれからというのもあるのだろうが、いつもノインは不思議がっていた。何の得にも
ならないのに、なんであんなに優しくしてくれるのだろう、と。困っているのを放っておけない早紀の性質もあるのだろうけれど、陸を可愛く思ってくれている
みたいだった。
進み時計、めくられるカレンダー、そんな中で、少しづつ陸を諦めてきたはずだった。
なのに、そんなことはまやかしだと知った。
帰ってくると思った瞬間に閉じていた心の中が解放されたようだった。
「何やってるんだ」
不満を口にして、不安が頭を過ぎる。ノインを呼び出したのは陸とは限らない。
もし、陸がノインの代わりをはたせなくなったら、その代わりにノインを連れ戻そうとするだろう。ノインの代わりを果たせなくなる――そんなことは一つし
か考えられない。怪我しようと病気になろうと生きてさえいれば代わりになるはずだ。
背筋がぞっとした。
「嘘だろ?」
ノインが消えてからかれこれ三十分以上が経っていた。別れを惜しむにしては長すぎる。嫌なことを考え始めると、それしか考えられなくなる。打ち消そうと
思っても、良い材料はまったくない。
「陸、何があったんだ」
くれぐれも危ないことはするなと言った。そんなことを言って言うことを聞くかどうかはまた別の問題で、信じたことにまっすぐで、怖さを知らないところが良
いところでもあるけれど不安で仕方ない。それでも同じ世界に居れば助けにいける。違う世界にいるじれったさをどれだけ陸が分かってはいたかは分からない。
いや、絶対分かってないだろう。
「陸」
無事でいてくれと思いつつ、もう遅いのかもしれないと思う。絶望感が徐々に心を蝕んでいった。
陸がどうしているのか、何があったのか、知ることも確かめることもできない。
(陸……)
大輔はテーブルに肘を付き頭を抱えた。嫌な考えを頭から追い出したいのに、浮かんでくるのは、陸の脅えた顔や苦痛に歪む顔や切なげな顔だった。
「やめてくれ」
頭を振っても、消えるどころか迫ってくる。
一時間を過ぎる頃には、頭の中が空っぽになった。考えたくないと拒否し続けた結果だ。
何も考えたくなかった。
そうだ。何も考えなければいい。
どれほどの時間が経ったのか分からなかった。
突然、目の前に天使が空から降ってきた。まさにそんな感じだった。
「ただいま」
陸がそう言った。
夢か、それとも幻なのだろうかと思った。
そして、インターホンが鳴った。そういえば、早紀が来ると言っていた。こんな時に、と思った。そういうものだ。なぜか、世の中はうまくいかないように
なっている。
早紀を迎え入れて、陸は部屋を飛び出して行った。
「どうしたの? 喜びそうなケーキ買ってきたのに」
閉まったドアを、早紀が怪訝そうな顔をしながら見て、靴を脱ぐと部屋にあがってくる。目の前まで来ると、紙袋をテーブルの上に置いた。
「陸の記憶が戻ったんだ」
説明としてはそれが正しいだろうと思う。
「ホント、良かったじゃないっていうか、もしかして、誤解した? 記憶喪失って記憶が戻るとその間のことは忘れちゃうっていうけど。いいの? そんな暢気
に座っていて。追いかけないの? 何か、陸くんらしくなかった気がするけど、大丈夫なの? 」
早紀が矢継ぎ早に問いただしてくる。
「陸は馬鹿じゃない。帰ってくるか、親元に行くか。大丈夫だ。軽はずみなことはしないよ」
「え、だって、今追いかけていけばいいんじゃないの? どうしちゃったのよ。大輔も変だよ。喧嘩でもしたの?」
「そうわけじゃないが。今はだめなんだ」
「どうして?」
「体が動かない」
「え?」
早紀がきょとんとした顔をする。
「足が震えていて立てそうもない」
「何言ってるの? 大輔」
「安心したんだ。良かった」
そう心から思う。同じ世界にいるなら、助けにいける。だけど、大事な時に役に立たないのはいつものことだ。
「安心して、なぜ動けなくなるの?」
早紀が前の椅子に腰掛けた。長期戦で質問攻めにするらしい。組んだ腕をテーブルの上に置いて、徹底抗戦の構えだ。
「理屈じゃないんだよ。陸はもう戻らないと思っていた。それでも仕方ないと諦めようとしていた」
「だって、陸くんがいなくなったわけじゃないじゃない。忘れた記憶はもう一度やり直せばいいんじゃないの?」
「陸には好きな人がいたんだ。俺に似ていた、らしい。俺はあくまでも身代わりなんだ。記憶を塗り替えることなんてできない」
「あ、そういえば、好きな人が突然目の前から消えたなんて想像できるかって聞かれたことがあったわ。そんな経験したら、居てくれるだけでいいって思うって
言ってた。そっか、あれは大輔じゃないんだ」
「陸は俺には何も期待していない。いつだってそうだ。俺を通して違うやつを見てる。今だって、何も言わずに出て行った。結局はそういうことだろ」
「それでいいの? 大輔は」
「陸がそれを望むなら、それでいい。陸が笑っていられるなら、それでいい」
「あなたの気持ちはどうなっちゃうのよ」
「正
直に言えば、俺は今の状況を利用してるんだ。分かるか? 陸はかわいい。夜どんなに遅くまでレポートを書いていても、朝は目をこすりながら起きてきて、朝
食の支度をしてくれるんだ。サニーサイドアップが上手く出来た時は嬉しそうだし、失敗した時のしょぼくれた表情がかわいくて、つい頭を撫でてやりたくな
る。帰れないと連絡すれ
ば着替えと夜食にとおにぎりやサンドイッチを作ってきてくれて、笑顔を振りまいて帰っていくんだ。陸がいると明るくなる。気持ちが和むんだ。手放したくな
いんだよ。俺はずるいと自分でも思う。でも、それが陸にとっても望むものなら、俺も大歓迎だ」
「それって、のろけ? 何も思ってないなら、そんなことしないよ思うよ。前から思ってたけど、ホント、陸くんが気の毒になってきたよ」
「そうさ。だから、戻ってこないと思っていたんだ」
本物が傍にいる方が嬉しいに決まっている。
「記
憶は自分で操作できるものだとは思わないけど。だけど、大輔がこんなに情けないやつだなんて思わなかった。正直、ここに来てたのだって、あなたに対する気
持ちにいまひとつけじめがついていないこともあったのよ。だけど、そんな気持ちなくなった。陸くんの記憶が戻ったのなら、もうこない方がいいのだろうし、
ちょうど良かったといえば、良かったけど。そんなんじゃ、そのうち陸くんにも愛想をつかされちゃうよ」
「じゃあ、どうすればいいって言うんだ」
方法があるなら教えて欲しいくらいだ。
「そんな遠い影なんて消してやるって気持ちにはなれないの? いつも自分から攻めていったじゃない。守りに入った大輔なんてつまらない。陸くんに本当の気
持ちを聞いてみれば? 」
「あいつは身代わりじゃないって言うさ」
「陸くんがそう言ったのなら、それが真実でしょ。あの子が嘘をつくとは思えない」
「陸はいい子だから、人を悲しませるようなことはしないだけだ」
「それだけの子じゃない。あの子はちゃんと自分の願望に正直だと思うよ。大輔が自分の都合のために目を逸らしているんじゃないの? 」
早紀に痛いところを突かれたと大輔は思った。
「それで誰も困らないならいいだろ?」
「そうね。あくまでも大輔と陸くんの問題だから」
早紀が諦めたように言う。
「この数ヶ月、楽しかった。私がいると陸くんが帰ってこれないだろうから帰るわ。もう、今度こそ、本当にさよならだね」
「助かったよ。ありがとう。早紀には感謝してる」
「陸くんにも感謝してあげてね」
笑いながら言うと、早紀は席を立ち部屋を出ていった。ドアが閉まる音の後、部屋の中には静けさが広がった。
早紀と話をして気持ちが落ち着いたのか、足の震えは治まっていた。今から追いかけてもどこへ行ったのか分からない。親元に連絡はしたくなかった。もし、
行っていなければまた心配をかけることになる。行き違いになるよりは、部屋で待っていた方がいいだろうと思った。同じ世界にいる。それだけで、気持ちは違
う。早紀に感謝しろと言われたが、当たり前だと思う。帰ってきてくれただけで、ありがとうと思った。