ノインが突然振り向いた。
「陸、早く装置を動かして帰るんだ。そうしたら、僕が装置を壊す。それでもう陸が呼び出されることはないよ。大丈夫。マキに僕は殺せない」
口早に言うと、早く行けとばかりに促す。
「あ……」
ノインが助けてくれるとは思わなかった。
(いいのかな)
始動スイッチをオンして、足を一歩出したところでノインの腕がマキに掴まれたのを視界の端で見えた。
「それは困るな」
マキの顔が険しくなっていた。
少し時間があって、移送が終わったことを画面が知らせる。
「早く、陸!」
ノインが体でマキを止めていた。
「いいのか? このままノインが無事ですむと思うのか?」
マキがノインの腕を捻り上げる。顔を歪めたノインは首を振りながら「早く!」と言っていた。帰ることもノインを助けに行くことできず、陸は立ち尽くして
いた。
「あ……」
どうすればいいのか分からなかった。
「陸は元々関係ない。そんな陸を巻き込んだのは僕らだ。だから、気にすることはないよ。帰りたいんでしょ。早くしないと帰れなくなるよ」
ノインが叫ぶ。
たぶん、ノインの言うことは正しい。こんなところに閉じ込められる謂れはない。だから、気にせず帰ればいいんだ。
だけど、違う――そう陸は思った。
「装置を壊すなら今壊してやる。退け!」
マキはノインを振り払おうとしたけれど、ノインはマキの腕にしがみついていた。力で、技でマキに敵うはずはない。どこでぶつけたのか、ノインの腕に血が
流れていた。
「早く!」
ノインの声に、陸は頭を振った。ノインの手が端末に打ち付けられそうになる瞬間、
「やめて!」
陸は叫んでマキに体当たりした。こんな状態で帰れるわけがない。マキは少し怯んだだけで、体勢をかえるまでにはいかなかった。ノインの腕は守れたけれ
ど、そこまでだった。
帰れないかもしれない。そんな考えが陸の頭に浮かんだ時、突然、「やめろ、一哉!」と誰とも分からない声が部屋に響いた。
(誰かいる?)
陸がそう思った瞬間、マキの動きが止まり、掴んでいたノインの腕を離した。
「かおる?」
マキが周りを仰ぎ見る。
「かおる、どこにいるんだ?」
悲痛な表情を浮かべ、視線を泳がせながら、マキは突っ立っていた。
「お前に傍に。そう約束しただろ。ずっと傍にいると」
砂嵐のような雑音に紛れながら、けれど、その声ははっきりと聞えた。
「罪を犯すようなことはしないと約束したじゃないか。人を傷つけないと約束したじゃないか。約束を破る前に終わらせるって約束したじゃないか。俺は約束を
守ったのに、お前は破るのか?」
「ずっと、傍に居たというなら、なぜ、私の問いかけに答えてくれなかったんだ」
マキが声の先を探るように見回す。
「も
う、終わらせよう。そう言ってしまいそうになるからだよ。もう、俺のところへ来いよ。そう何度も言いたかった。だけど、それは、お前が全てを捨てて俺に尽
くしてくれたことを反故にしてしまう。そんなこと、言えるわけないだろう。俺ができることは約束通りずっと傍に居て見守っていることだけだった。だけど、
一哉、お前をそこまで壊してしまうなら、もうやめよう。お前は十分過ぎるほどの成果を残してくれた。俺は、お前に感謝しかない」
穏やかな声が部屋の空気を変えていった。
「マキが以前付いていた研究者の水野かおる、みたいだね。不老不死の方法を開発したやつだ」
ノインが耳打ちしてくる。それは、遠い昔の話だ。その頃、マキには一哉という名前があったらしい。
「ごめん。痛かったよね」
陸は血がでているノインの腕を見やった。
「こんな時に、他人の心配するわけ? ホント、お人よしだね」
ノインが呆れた顔をした。
「今なら大丈夫そうだよ。陸が帰った後、装置をリセットして僕も部屋に戻るよ。あの様子じゃ、しばらく放心状態だろう」
ノインが続ける。マキは膝を付き項垂れていた。
確かに、ノインの言うことは正しいように思えた。リセットされてしまえば、もう呼び出されることもないだろう。さっさとノインの言うことを聞いた方がい
いと頭は理解するのに、押し留める気持ちがある。
「ごめん、ノイン。まだ帰れない」
酷いやつだと思うのに、項垂れたままのマキを一人残しておけないと思ってしまうのは、なぜなのだろうと思う。
「そんなこと言ってると帰れなくなるよ。帰りたいんでしょ? 」
「でも」
きっとこのまま帰ったら後悔する。ずっと今のマキの姿が心に焼き付いて離れないだろうと思った。
「仕方ないな」
ノインは溜息をつくと、端末に寄りかかった。
「ノインは部屋に戻ってもいいよ。マキが話しがあるって言ってたのは僕だけだし」
ノインの提案は正しいと思う。これから先は自分の我が侭なのだからノインにまで付き合わせることはない。
「以前の僕なら、さっさと戻るところなんだけど、なんか変な病気をもらってきたみたいだ。なんだろうね。戻っちゃいけない気がするんだ。こんなことやって
も、なんの得にもならないのに。ばからしい」
ノインは口汚く言ったわりには、あまり嫌そうでもなかった。
陸はマキに近づくと、「マキ?」と声をかけた。
「なんだ。まだ居たのか」
マキは少し後ろを向き呆れたように言う。
「僕に話があるって言ってたし」
陸が言うと、マキは鼻で笑った。
「もう、終わりだ。全て終わり。さっさと帰ればいい」
どうでもいいとばかりに投げやりに言い捨てる。
「話を聞いてからにするよ」
それは、ただの自己満足であることは分かっていた。でも、納得できなければ自分の中で終われない。
マキはすっと立つと、歩いていく。陸はその後に従った。迷路のように端末脇の抜け、柱だと思ったのはエレベータだった。あがったところにロフトがあり、
机や端末やソファが置かれていた。ここにいたのなら、分からなかったのも道理だ。
机の引き出しから、小さなボックスを出し、中をあけて見せてくれた。柔らかそうな緩衝材の中にカプセルがひとつあった。
「これは、私の体を覆っている膜を溶かすものだ」
「そんなものがあったんだ」
ちょっと驚きだった。マキはその小さなボックスを机の上に置くと、少し大きいボックスを出し、中をあけて見せてくれた。その中には、土しかなかった。そ
のボックスをマキはすぐに閉じた。
「これは、かおるの髪だったものだ。膜で覆って表面上劣化してないように見せても、私の中身はこれと同じだ。膜が解けてなくなれば、同じ状態になるだろ
う」
「まさか、そんな……」
理屈ではそうなのかもしれないが、信じろと言う方が無理だと思う。膜が溶けただけですぐにそこまで変化するとは思えなかった。
「ただ、この薬が効けば、の話だ。薬が劣化していて効かなかった場合は――何も変わらない」
マキが声を落とす。それは悲しげに聞えた。
「大丈夫だよ。もし、そうなってもノインがなんとかしてくれるよ」
自分には無理だ。だけど、ノインならと思った。
「ノインは自分のことしか頭にないやつだ。ずっとそうだった」
「でも、僕もこと助けてくれたよ。何の得にもならないって言いながら」
そう。少しびっくりした。今のノインなら助けてくれそうな気がした。
「そうだったな」
マキが下を向き小さく微笑んだ。
「話はこれで終わりだ」
マキが見てきた。
今まで良く見せてきたいやらしくにやけた顔じゃない。穏やかで優しい表情はそれがマキの本質なのかと思う。
陸は、かおるの髪だったものだと言われたボックスを見た。この状態になるのだと自分で言っていて怖くないのかと思う。
「付き合うよ」
もし、薬が効かなかったら、マキはどうするのだろうと思う。きっと、このまま帰っても気になって仕方ない。
「もし、薬が効かなかったらまともな精神のままでいられるかどうか分からない。近くにいたら何をするか分からない。早く帰りたいところへ帰ればいい」
「帰れないよ。マキは色々力になってくれたじゃないか。よく分からない状態で放って帰るなんてできない」
それは迷惑なことなのかもしれないけれど、もうここに戻ってこれないと思えば譲れない気持ちがあった。
「どこまで目出度いやつなんだ。力になった覚えはない。帰れなくなってもいいのか? 」
いらいらしたようにマキが言う。
「帰れるよ。マキもノインも僕も、傍にいたい人のところへ帰ろうよ」
それができれば一番良い。
しばらくマキは何も言わなかった。
「――すごく単純なことだな」
まるで、初めて知ったことのようにマキは言った。
「でも、単純なことが時にすごく難しかったりするんだけどね」
そもそも大好きな人と気持ちが合うとは限らない。
「薬を飲む前にやらなければいけないことがある。少し待ってくれるか」
「うん」
陸は頷いた。
マキは応えるように頷くと、端末の前に座った。画面が明るくなり、マキは何かを打ち込み始めた。
「私は陸が一緒に生きてくれるなら、永遠を穏やかに過ごせるかもしれないと思った」
マキが静かに言う。
「そんなのかいかぶりだよ。僕なんて何もできないのに」
こちらに来てからはただただ驚いてばかりだ。
「私はずっと、この薬はいつまで効くのだろうと考えていた。何度も手を伸ばしやめた。自分の立場という側面もあるが、一番は使うことが怖かった。効かなけ
ればその先には絶望しかない。なのに、今はなぜか怖いとは思わない。それは、陸のお陰だ」
「そんなことないよ。かおるさん……の声を聞いたからじゃないかな? 好きな人の声を聞くと安心するっていうか。なんとかなるような気になる」
「それは経験か?」
マキが振り向いてきた。
「うん。なんか元気になれるんだ」
そんなことは何度もあった。
「なら、そうかもしれないな。でも、声をきくことが出来たのはやはり陸のお陰だ。ありがとう」
まっすぐマキが見てくる。陸は恥ずかしくなって小さく頷いた。感謝されることをした覚えはない。ただ、自分が帰りたかっただけだ。
マキはすぐに向き直ると、また端末を操作し始めた。ただ待っているのは退屈で、立っているのも落ち着かなくて、そっとソファに腰を降ろした。許しを得た方
がい
いかなとも思ったけれど、作業の途中で中断させるのも申し訳ない。ほっとした気持ちは眠気をさそう。寝てないのはホントだ。
ふと気が付くと、マキが隣に
座っていた。
「あ、ごめんなさい」
気持ちよく寝てしまったらしい。
「いや、かわいい寝顔が見られて得をしたよ」
「そんな」
思わず陸は頬が赤らむのを感じた。
「早く帰りたいだろう?」
「え、あ、うん。でも、そんなに急ぐこともないし」
最後になると思うと少し未練みたいなものも覗かせる。
「そんなことを言っていたら、きりがないな」
マキは立ち上がり、薬の箱を持ってくると戻ってきた。
「醜い姿は見られたくない。目をつむっていてくれ」
言いながら、薬を右手に取る。
「じゃあ、手を握ってる」
陸は左手を取るとぎゅっと握ると、下を向いて目を閉じた。
「暖かい」
体温を感じる。それは確かに血が体を巡っている証拠だと思う。
「また、いつか会いたいな」
「うん」
少し前までは絶対にそんなこと思わなかっただろうと思うけれど、今なら素直に頷けた。マキが生きてきた長い月日は人を変えるのに十分な時間だったのだろ
うと思う。
小さな息づかいと喉がごくりと鳴った音がした。
「りく……」
小さな声が聞えた。そして、柔らかかったマキの手がざらっとした堅い感触に変わったと思ったら、手の中で崩れた。
「マキ?」
陸がおそるおそる目を開けると、そこにマキはいなかった。身につけていた服がソファの上と床の上に畳まれたように置かれていて、周りに散らばった土が床に
吸われていく。手の中で崩れたものが風で舞い上がりそうになり、陸はあわてて手を被せて守った。確かにマキ手を握っていたのに、今手の中にあるのは、時の
流れを確かに受け取っていた。優秀な埃監視システムはまるで痕跡を残さないかのように吸い取っていく。手を開けば、今中に握っているものもすぐに舞い上
がって消えてし
まうだろう。
でも、それはあまりに寂しい。
陸はかおるの髪が入っていたボックスに手の中のものを入れた。引き出しにしまい手を合わせた。今頃、会っているのだろうかと思う。それを確かめる術はな
い。ノインを待たせていたから急いで、エレベータで下に下りた。
「ずいぶん、遅かったね」
ノインは待ちくたびれた様子で台の上に座っていた。
「ごめん。マキが作業してる間に寝ちゃって。最近眠れなかったから、たぶん、安心しちゃったんだ」
申し訳なさに言い訳してしまった。
「マキは?」
「マキはもういない」
姿を見たわけじゃないけれど、手の中で変化は感じた。
「そっか。じゃあ、中央は今頃てんてこまいかな。マキの後を継げるやつなんていないだろうから、管理体制はずいぶんと緩くなるかもしれない」
「それは、自由になるってこと?」
マキの地位も権力も結局分からないけれど、ノインの口ぶりからすると重要な位置にいたのかもしれないと思う。少なくとも仕えてきた年月は誰にも負けない
だろう。
「自由になる分、守ってくれるものもなくなる。どちらがいいのか分からないけど、陸の世界の空気はどうにかした方がいいと思うよ」
「え、そう?」
そんなに酷かったっけと思う。確かに山に行ったりすると空気が美味しいと思うようなことはあったけれど、と思った。
「面倒なことになる前に済ませちゃった方がいいね」
ノインが台を下りると、装置に近づく。
「ありがとう」
陸はノインに向かって言った。頼りにしてた部分もある。第一、この世界に来なければ大輔と知り合うこともなかった。
「迷惑かけてごめん」
「ううん。色々勉強になったし、楽しいこともあったよ」
今となれば全て良い思い出だ。
「もう、会うこともないと思うけど」
「うん。さよなら」
陸は転送装置の上に乗った。ノインが手を振ってくる。振りかえすとすぐに闇がきた。それはほんの一瞬で光に変わる。そして、目の前に現れたのはダイニング
テーブルに座っている大輔だった。周りの風景は懐かしいマンションの一室で、そういえば、装置を起動した時に大輔の姿が見えなかったということは今日は休
みってことだったのだと思った。
ほんの数ヶ月というべきか、数ヶ月もというべきか、ただ、目の前の景色はすごく懐かしく思えた。
「ただいま」
やっと帰ってこれた。
「陸、なのか?」
大輔はきょとんとした顔をしていた。
「うん」
「夢じゃないのか?」
「うん」
「どうしてこんなに時間がかかったんだ。あまりに遅いから、俺は――」
大輔が唇を噛む。
「ごめん」
謝りながら、陸はなんか釈然としない気持ちだった。帰ってこれるか分からないところをがんばって帰ってきたのに、遅いって言われたって、と思う。
互いに少し無言だった。静かな部屋に外からカツンカツンと高い足音が聞えてきて、ピンポンと呼び鈴が鳴った。誰かきたらしい。
大輔がはっとするように時計を見て、ばつが悪い顔をした。もう一度呼び鈴が鳴り、ドンドンとドアを叩く音とともに、「大輔、陸くーん、開けてー」という
聞き覚えのある声がした。陸は急いでドアまで行き開けた。すると思った通り、早紀が目の前にいた。
「今日はいっぱいお土産買ってきたわよ」
早紀が笑顔で紙袋を持ち上げる。
「いらっしゃい」と声をかけると「ごゆっくり」と言って、陸は靴を履くと家から飛び出した。
(遅かったから? だから? )
頭の中は大輔が言った言葉が回っていた。