愛しい人(陸から見て)
突然聞き覚えがあるメロディが鳴り出した。
ベッドに仰向けになり天井を眺めていた陸は飛び起きて携帯を手にした。急いでラインを繋ぐと「大輔?」と声をかけた。
「陸か? もう繋がらないかと思っていた」
「うん。もうバッテリーがない」
充電する手段はない。長持ちさせる方法はとりあえず何もしないことだと思った。メモリはひとつ。いつ一つになったのかは分からないし、こんなに充電しな
いで置いておいたこともない。まだ繋がったことに感謝した。
「大輔」
陸は何を言ったらいいのか分からなかった。突然のことで頭が真っ白になった。いつ切れてしまうか分からないラインを前に言葉がでてこない。
「陸」
大輔の声が聞えた後、プチっと小さな音がなった。ラインが切れるときに鳴る音だ。そして『充電してください』の文字がディスプレイに表示された。こんなも
のを表示する力があるならまだ繋げておいて欲しいと思ったけれど、すぐに表示は切れて、電源も落ちた。最後の力を振り絞ったらしい。大輔は何を言いたかっ
たのだろうと思うけれど、それは想像すらできない。たった一つの連絡ツールは今何も言わぬ箱になってしまった。陸は沈黙した携帯を今まで置いていたサイド
テーブルに戻した。
状況は何も変わっていない。
今聞いたばかりの大輔の声を頭の中で繰り返し思い出しながら、陸は目を閉じた。
朝起きて、特にすることはなかった。いつのもことだ。その日、陸はあまりお腹もすいていなかったので、フルーツジュースを飲んで終わりにした。お腹がすけ
ばその時に何が食べたいか考えればいい。空調の効いている部屋は汗をかくこともない。はめごろしの窓からは外が暑いのか寒いのかもわからない。
そして、大抵同じ時間にデールが来る。
「何か変わったことはないか?」
「何もないよ」
毎日の決まった会話。
「今日は何をする?」
「うーん。何も決めてない」
「どこかへ行くか?」
「ううん。いいや」
何もしてないと何をするのも面倒になる。ただ、空腹だけは時間とともにやってくる。
デールと一緒に軽いおやつを食べる。今日は野菜のサンドイッチにした。
「少し運動した方がいいんじゃないか?」
「じゃあ、スカッシュやろう?」
デールを誘って一時間ほど汗を流し、その後シャワーを浴びて文字通り汗を流した。そして、お昼ご飯。
陸はパスタ料理とスープにすると、デールはオムレツにした。
「ノインもそれが好きだった」
デールが陸の皿を指す。
肉や魚みたいな重いものを食べたくないときに手軽に食べるものとして、いわゆるパスタ料理を選ぶ。材料が何かは分からないけれど、たぶん粉をまとめて伸ば
して細く切ったもので、色によって味が変わる。乳白色のものはスパゲティに近く緑色のものはハーブが混ぜ込まれているようで蕎麦に近い。
「俺はノインに騙されていたんだ」
デールがぼそっと言う。
「どうしてそう思うの?」
デールの口から出たのは陸にとって意外な言葉だった。
「陸の世界であいつは存在しない状態になっていた。自分だけ見つからないようにしていた。自分だけ逃げるつもりだったんだ、あいつは」
最後は冷たく言い切るようにデールは言った。
「ノインにそんな細工をする暇なんてあったの? あの時、ノインが普通の時と同じだったと思わないし、何かできたと思わないし、だって、あの時に逃げるな
んてノインが計画したことじゃないでしょ? 」
怪我をした後まるで子供のように見えたノインに何かできたのだろうかと思う。ただデールを欲していたような姿に自分だけ逃げたいという思いがあったとは
思えない。
「けれど、それまでもノインは俺に嘘をついてきた」
「どんな?」
聞いた陸にデールは視線を落とした。
「あいつのしていることは全部俺のためだと――そう言っていた」
「ノインにとってはそうだったんじゃないの? デールに傍にいて欲しいから、ノインのやったことは全てそのためだったんじゃないかな。そう思えるけど」
「嘘をつかせたのは俺だっていうのか? そんな必要ないのに? そんなことは望んでいないのに?」
「ノインは不安だったんだと思うよ。追いかけていくことができないから。ただ待っていることしかできないから」
「ずいぶんノインの肩を持つんだな。酷いことをされたのに。あいつは俺のために陸を呼び出したと言っていたがそれも嘘だった。あいつはここから逃げるため
に――」
「デールと一緒にね」
陸はデールの話を切って言った。
「じゃあ、なんであいつは一人だけ存在を消してたんだ」
デールにはそこがどうしても気になるらしい。けれど、どうしてそんな状態になったのか分かるとしたらノインだけだろう。
「どうどう巡りだよ、デール。だけど、ノインは一人で逃げたいなんて思っていなかったと思うよ。本当にそう思っていたなら、逃げ出せる機会はいつでもあっ
たはずだ。今みたいに僕と入れ替わって、だけどしなかったじゃない。そういうことでしょ」
「でも、俺のためだと言い、あいつの要求はきびしくなるばかりだった」
「不安だったんだよ。それだけ。僕も原因のひとつなんだろうけど、デールが僕のことなんて見向きもしなければ安心したんじゃないかな。心当たりあるで
しょ」
抱かれていた時に見られたこともある。反対の立場だったら思うと胸が痛い。
「それは、お前が俺のために呼ばれたのかと思うと何か力になりたいと思っただけだ。最初はそうだった」
「でも、デールが自分以外の人に優しくするだけでもノインは不安だったと思うよ」
今だから言えることだ。
「陸、変わったな。初めて会った時はもっと弱々しい頼りない感じだったのに」
デールが視線を合わせてきてじっと見られて陸はどきっとした。大輔に見られている気持ちになった。顔も表情も仕草も同じなのだから、どうしても大輔がか
ぶる。
「あ
の時は知らない場所に突然連れてこられてこれから自分がどうなるのか分からなかったし不安ばかりだった。それに、いつまでも同じではいられないよ。何もし
ないでいることはできないんだから。いい事もあれば悪い事もあるし嬉しい事や悲しいことがある度に変わっていくのは仕方ないし自然でしょ?」
不思議だった。自分には五年くらい時が流れているのに、デールにとっては数日なのだ。
「そうだな――ノインはどうしているだろう」
デールが視線を逸らすように遠くに向けた。いつもそう思っているのだろうかと思った。そうでなければ、メニューひとつで話がでてこないだろう。
「大丈夫だよ。大輔がいるから」
言いながら、自分とそっくりなノインを目の前にして大輔はどう思っているのだろうと思う。何も話せず切れてしまった通話が恨めしかった。
「そうだな。心配したところで何もできない」
デールが止めていた手を動かし始めた。
再会した時は、ノインを忘れて二人でやり直そうっていう感じだったけれど、それから先に進んではこない。無理にしようとは思わないと言っていたけれど、
だからと言って、誘う感じでもなかった。
「ねえ、デールここで再会したとき言ったこと覚えてる?」
今までは触れたくなかったから避けていたことだけど、思い切って聞いてみた。
「ああ」
そっけない答えが返ってきた。
「同じ気持ちでいる?」
「少し違う」
それは意外な返事だった。
「どんな風に?」
「俺
はお前を一人で行かせたことに引け目を感じていた。ノインを一人にはできないと思ったし、どちらとも都合のよい関係でいたいわけじゃない。あの時、自分は
ノインを選ぶしかないと思っていた。けれど、どんなめぐり合わせか俺の目の前に陸がいた。これは運命なのかもしれないと思ったけれど、お前は変わってい
た。分かれた時の陸じゃなかった」
「当たり前だよ」
過去の出来事を思い出にできるほど時が流れていた。
「お前はもう俺のところ
から遠く飛び立っていってしまった。でも、それを良かったと思っている俺もいるんだ。可愛いし愛しいと思うけれど、なんていうのかな、幸せを見守ってやり
たいっていうのか。俺がお前に惹かれたのはノインに対する不満の裏返しだったのかもしれない。今だってお前にノインが被る。だけど、話し始めると違うって
すぐに分かるな。ノインは今のお前みたいに自立していない。その原因はこの環境にあるのだろうが、だから守ってやらなきゃいけないと思う」
「ノインが自立したら気持ちは変わるの?」
「さあ、それはその時になってみないと分からない。だけど、少し話したらもやもやしていた気持ちに整理がついた。陸、ありがとう。何でも急いではいいこと
ないな。全ては自然にまかせるのがいいのかもしれない。何かしようと思っても裏目にでるばかりだ。お前とのことも」
デールはそう言うとにっこり笑って頭を撫でてくれた。もうそんな歳じゃないんですけど、と思ってもデールに実感はないのだろう。ただ、すっきりしたと
言っていただけあって、表情が優しくなった気がした。
全ては自然に――確かにそうなのかもしれないけれど、それでは戻ることはできない。午後は会議があると言って、デールは食事が終わった後に部屋を出て行っ
た。会議という言葉に陸はある種の予感があった。マキが時折部屋を訪ねてくる。その時はいつもデールがいなかった。早朝や夜中なわけじゃない。真昼間だ。
予感は的中した。デールが部屋を出てから一時間ほど経った頃、実験室に入ってきた人がいた。