暗い空にはぽつぽつとまばらに広がる星たちとそれを束ねるように丸い月が光っていた。照ら される光が違えば見え方も違うことは理解していたけれど、昼間見た風景と夜のそれはまったく違うものに思えた。
(広い道にでられるはず)
 車と人の歩きでは速度が違う。距離は分からない。ただ、広い道をまっすぐ走って信号を曲がったらすぐに着いた記憶がある。
  ゆるやかな坂をずいぶん上った。車に乗っていて気がつかなかったほどの斜度ではあったけれど、歩いてみると堪えてくる。距離も思ったより遠い。少し後悔し 始めた気持ちにのんびり行けばいいよと諭した。急ぐ必要は疲れたら休めばいい。座るところくらいあるだろう。この世界に着いたときのような広場はひとつ じゃないだろうと思う。
 途中何度か立ち止まって息を整えて、信号の光が見えてきたことに安堵した。ひとつの通過点だ。
 角を曲がって少 し歩くと光る看板が道の両脇の建物に掲げられていて、今までより車の数も歩いている人の数も変わってきた。談笑しながら通りすぎていく人たち、一人無言で 足早に過ぎて行く人。軽やかに見える足取りは目的地が近いのだろうと思う。自分はといえば、正直、目的地に着けるかどうかも分からない。初めての土地のあ いまいな記憶はいったいどのくらい正しいのだろうと思う。

 とぼとぼ歩いていると、突然肩を掴まれた。
「おい、陸。さっきから何度も呼んでるのに無視はないだろ?」
 耳元で叫ばれて体がびくっとして、振り向くと知らない顔が二つあった。当たり前だ。ノインにとってこの世界で知る顔など数えるほどだ。
「環、もしかして、人違いかもしれないよ」
 肩を掴んでいるやつの隣に立っているやつが心細い声を出してくる。
「なわけないだろ!」
 環と呼ばれた肩を掴んだやつは、その隣のやつをばさっと切り捨てた。
「お前こんなところで何してんの?つか、その包帯はどうしたんだよ」
 環は続けて陸だと信じて疑わない口ぶりで聞いてくる。
「環。世の中3人はそっくりな人がいるっていうよ」
  隣のやつが小声で諭しているようだが、環の力は抜けない。人違いだと言えばそれで通るのかもしれないと思った。一人は疑っているようだし。けれど、振り 切ってしまうことを躊躇った。このまま歩いていって目的地に着けるかどうかは分からない。結構親しい友人のようだから、陸が住んでいた家を知っているだろ う。ならば、道案内してもらえば早い。けれど、それをどう言ったものかと思う。下手をすると今出て来た家に連れ戻されてしまうかもしれない。たぶんだけれ ど、今戻されてしまったらもう逃げ出せないだろう。

「おい、陸?」
 環の声音が少し弱くなった。あまりに反応しないので、もしかしたら人間違いだと思ったのかもしれない。肩から環の手が離れた時だった。どこからか、物が 震える音がした。環がズボンのポケットから何か小さな四角いものをだした。画面を確認すると耳にあてた。
「なんだよ、大輔」
 乱暴な声を出す。相手は大輔らしい。
「陸に良く似た頭に包帯巻いたやつなら、オレの目の前にいるんだけど」
 環は隣のやつと目を合わせながら答えた。
 逃げたことがもうばれたらしい。それで、心当たりを探しているのかと思う。
 環は辺りを見回して目印になるようなものを言っていた。
 迎えが来るらしい。今までの経験から言って迎えに来るのは大輔ではないだろう。それで、今出て来た場所に戻されるんだ。ノインは逃げようと足を引いたら 環に腕を掴まれてしまった。
「何か理由がありそうだな」
 環はにやりと笑い、その隣のやつは口を引き結んで心配そうな目をしていた。

 僕は陸じゃない――そう言えばこの手を離してもらえるのだろうかとノインは思った。
「ねえ、陸じゃないよ」
 まるでテレパシーでも通じたかのように、向かいの引き結んでいた口が弱々しく代わりに言ってくれた。
「なら、本人がそう言うだろうよ。それとも口がきけないのか?」
 環が視線を向けてくる。腕は掴まれたままだ。きつく握られているわけじゃない。だけどこの腕からは逃れられない気がした。運動能力的にたぶん自分より ずっと上だろう。逃げたところですぐに追いつかれてしまう気もする。

「手を離してくれない? 痛いんだ」
 ノインは声をだした。痛いわけじゃない。ただ少し鬱陶しい。それに、逃げるのは得策ではなさそうだと思う。結局頼りにできるのは大輔しかいないわけで、 直談判するしかない。
「また、逃げようっての?」
 環の目がつりあがり厳しい顔になる。更にきつく握られて本当に痛くなり、顔が歪んだ。
「もう逃げないよ。大輔に会いたくて出て来たんだから」
 それは本当のことだ。
「陸……なの?」
 ひょこっと覗いてきた自信なさげな声にノインはただ笑った。
「大輔が来ると思って逃げようとしたんだろ?」
 手を握っている主は疑り深かった。
「本当に大輔が来るのかなって思ったんだ。忙しい人だから。でも、待ってた方が早く会えるかもしれないって思いなおしただけだよ」
 下手な嘘はつかない方がいいと、頭の片隅で警告する声がある。環はそんな甘いやつじゃなさそうだ。来たのが大輔じゃなかったら、大輔に会いたいんだと環 に言えば連れていってくれるかもしれない。信用できるやつなんだろうと思う。大輔が連絡してきたやつなのだから。
 顔が緩んだと同時に手も緩み解放された。
「ばれたのか?」
 とかけられた声に、ノインはただ笑った。
 何のことか分からないけれど、下手に聞けないし答えられない。誤魔化したい時は笑うのが一番便利だ。それはどこも同じなのか、それから何も聞かれること はなかった。
 夜空に光ってる星は少なかった。ただ、埃っぽさは昼間よりずいぶんと少ない。時折吹くひんやりした風が体を堅くする。どれほどの時間が経ったのか、それ は長かったようにも短かったようにも思えたけれど、車が目の前で止まり、窓が開き、奥に見えた顔は大輔だった。
「環、助かったよ。ありがとう」
 そう言った後視線を向けてきた大輔は、「早く乗ってくれ。時間がないんだ」と早口で言った。
 ノインが車に乗り込み、「貸しだからな」と言う環の声に「分かった」と大輔は答えると窓を閉め、車が動き出す。
「運転は得意じゃないんだ。覚悟しとけよ」
 という言葉と共に車は大きくカーブして、車の来たのとは反対の方向へ走っていく。
「分かった」
 陸の家に戻されるわけじゃないらしいことにノインはほっとした。

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