「ご飯ができたわよ」という陸の母の声でノインは目を覚ました。少し寝てしまったらしい。
よく寝てしまうのは怪我のせいだとノインは思った。体が回復したがっている。ふと食欲をそそる香辛料の匂いを感じて、お腹がきゅっと縮んだ気がした。
「食べなきゃ元気にならないから起きていらっしゃい」
何が楽しいんだろうと思うような陽気な声で陸の母親が笑いかけてくる。わざわざ食事ができたと呼びにくる。こんなことはノインの記憶にはなかった。お腹
がすいたら自分で食堂に行って、自分の食べたいものを注文する。大抵一人だった。
陸の母親に促されて家の奥に行くと、広い空間があってテーブルが置かれていた。そのテーブルの上に匂いの正体だろうと思われるものが皿に盛られている。
傍に野菜スープも置かれていた。
「カレーチャーハン大好きでしょ。怪我した後に刺激物はどうかと思ったんだけど、だから、香辛料は少し控えめにしてあるの。とにかく食べなきゃ」
同じものが置かれている向かいの席に陸の母が座った。一緒に食べるらしい。ノインが戸惑っていると、「温かいうちに食べなきゃ」と声が降ってくる。とにか
く、さっさと食べないと許してもらえないらしい。次の言葉が降ってくる前にと、ノインは席に座った。スプーンですくって一口口の中に入れて、「美味しい」
と思わずノインは声をもらした。向かいの陸の母親が思い通りにだという顔をして、にこっと笑う。
いままで食べているものだって美味しかった。好きなものしか口に運ばないのだから美味しいに決まってる。だけど、その美味しさに感情を揺すぶられること
は無かった。思わず声がでてしまうことなんてなかった。
あっという間に皿は空っぽになった。
「これだけ食べられれば安心ね」
嬉しいそうな声とともに温かい笑顔を向けてくる。ノインはその笑顔に体をきゅっと縛られていく感じがした。眠いと言って席を立って、残念そうな顔した陸の
母親から視線を逸らすように、ノインは居間を出ると陸の部屋に戻ってベッドの中に入って布団を頭までかぶった。原因の分からない居心地の悪さが体にまとわ
りつく。陸の母親の残念そうな顔が頭の中で回っていた。
また少し寝てしまったみたいだった。今度は若い女の声でノインは目を覚ました。
「で、帰ってきたの?」
驚いた声が家の奥から聞えてくる。しかし、その後何も声は聞えずにただざわざわした空気だけが渦巻いていた。若い女の声は、たぶん、陸の姉の海だろうとノ
インは思った。人が増えたことでまた自分の居場所が減った気がした。隣が海の部屋なのだろうから実質的に減るわけじゃない。けれど、体が伸びきれない。そ
れはベッドの大きさということではなく心の広さだと思う。余裕がなくなっていく。一人で好きに振舞っていたことが懐かしく思えた。
夕食
の時には、わざわざ早く帰ってきたという陸の父親まで登場して更に身は細っていくようだった。舌が喜ぶ食事も喉を過ぎていけないようで、気遣ってくれてい
るらしく怪我のことには一切触れてこない飛び交う会話もその中には入ることはできなかった。早々に席を立ち部屋に戻って暗い中で一人ぽつんとベッドに座っ
て、ノインはやっとほっとした。詰まっているように感じる喉も少しづつ硬さが溶けていくようだった。時折、居間の方から話し声が聞えてくる。自分のことを
言っているのだろうかと思うと胸がざわざわしてくる。だからと言って確かめにいく勇気はない。今まではいつも一人だった。誰かがいるとしてもデールだけ
だった。自分のテリトリーの中で他の人たちの話声がするなんてことはなかった。誰にも干渉されず自由だった。それで不満はなかったのに、ほんの少しの好奇
心が全てを変えてしまった。ほんの少し違う世界を覗いてみたかっただけだった。ほんの少し違う人間になってみたかっただけだった。ほんの少し外に出てみた
かっただけだった。集まったほんの少しは自分の都合では変えられない未来に繋がった。
「帰りたい……」
本音が呟きになった。
「デール……」
一緒ならばそれでも良かった。あの手を離さなければ一緒に戻れたかもしれない。一瞬の出来事だった。何もできなかった。傍にいたデールと同じ顔同じ声を
持つ人は、デールにはなってくれなかった。
ふと意識が浮上した。どうすることもできずにベッドの中にもぐりこんだらまた寝てしまったらしい。
「寝てるみたいよ」
忍ぶような声が耳に飛び込んできた。陸の姉の海の声だ。
「そう、ならいいけど、明日は医者に連れていった方がいいわね。柏さんに何処に連れていったらいいのか相談した方がいいかしらね」
呟くように答えたのは陸の母だった。
「何
がいいのか知らないけど、あの人にはもう関わらない方がいいんじゃないの?前だって大怪我したじゃない。超リッチな個室なんかあてがわれて満足してたみた
いだけど、今度の記憶喪失って何? まるで陸じゃないみたい。何か変なことに巻き込まれてるんじゃないの? あの人のことも忘れちゃってるんでしょ? 丁
度いい機会だし関係絶っちゃえば?」
少し棘がある声が暗闇に響く。
「でも……」
陸の母の含みがあるような声を残して、足音が遠ざかっていった。
(関係を絶つ?)
それは大輔のことだろうとノインは思った。デールの顔が浮かぶ。大輔はデールじゃない。それは分かっていた。けれど、遠いデールとの関係も切られてしまう
ような気がする。この居心地の悪い場所でこれからずっと過ごさなければいけないくらいなら、誰もいない大輔のところの方がずっと良い。
明日医者に行くと言っていた。そこで何をされるかも分からない。ここでの医療がどういうものかも分からない。おもちゃにされるのだとしたら嫌だ。もう治
療は済んでいる。後はただ休みたいだけだ。放っておいてもらいたいのにここでは無理そうだった。
元の世界へ戻るのが無理なら、せめてそこに近いところへ行こうと思った。大輔なら無理矢理医者へ連れていくとは言わないだろう。だいたい記憶喪失なん
じゃないことは知っている。車で連れてこられた道もぼんやりと町並みを覚えている。
「僕は陸じゃない」
海の言葉にノインは答えた。陸ではないのだからここに居る理由はない。ノインはそっとベッドを降りると、ここにくる時に着ていたものに着替えた。なんと
なく後ろ髪を引かれるような気がしたけれど、振り切るように首を振って部屋を出た。
「ごめんなさい」
聞かれないように家の奥の方へ向かって小さく呟くと、ノインは靴を履いて玄関を出た。ドアが閉まると途端に一人ぽっちになった気がした。でも、今までも
ずっと一人だった。デールでさえ、陸に心を動かされた。こちらの気持ちとは関係なしにあっさりと離れていってしまうあっけないものだった。階段を降りなが
ら、今までと変わりはしないじゃないかとノインは自分に言い聞かせた。