遠距離(ノインの場合)


 目を開くと飛び込んできたのは白い天井だった。
「あれ?」
 いつ寝てしまたのだろうと起き上がると、周りの風景は見慣れぬものだった。
――ここはどこ?
「デール?」
 いつも傍に居てくれた人に声をかけても答えがない。ここはどこなのだろうと考えているとぼんやりと記憶が浮上してくる。そうだった。ここは陸の世界で デールは消えてしまった。
 それから、そう、デールに瓜二つの大輔にここに連れてこられたのだった。眠りに落ちる前はいたはずなのに、寝ている間にどこかへ行ってしまったらしい。 家の中に人の気配がなかった。
「お腹すいた……」
 昨日の夜は食事を提供してくれるところで食べて帰ってきた。プレート上にハンバーグや温野菜目玉焼きがのっていた。美味しいかと聞かれたが、正直美味し いとは思えなかった。肉はパサパサして温野菜はスカスカな感触で米も甘くなった。昼に食べたカツ丼ってやつの方が美味しかった。あまり食事には期待できな いのかなと思う。それも誤算だった。空気が綺麗じゃないことも。街のほこり臭い匂いも。感じることはマイナスばかりだ。
 ベッドから降りて窓の外を見ると太陽はだいぶ高い。ずいぶんとぐっすり寝たからか、頭がすっきりした気がした。どうすることもできずに、ノインはまた ベッドに戻って体を丸めた。
 しばらく経った頃、靴音が部屋に近づいてきて、がちゃがちゃをロックをはずす音がした。なんでこんな騒々しい音をたてなきゃロックが外せないのだろうと 思う。ただ、大輔が帰ってきたらしいことにほっとした。ノインがベッドを降りて部屋を出ると玄関で靴を脱ぐ人が見えた。
「あ、ごめんね。遅くなっちゃって。お腹すいたでしょう。サンドイッチ買ってきたから、それを食べたら陸くんの家へ行こうね」
 ビニールの袋をさげたそれは香先輩だった。
「陸の? 」
「うん。大輔がしばらく家に帰れないかもしれない。それでなくたってあまり家にいるわけじゃないし、一人じゃ心配だから世話をしてくれる人がいるところが いいだろうって。連絡はしておいてくれるから」
 言いながら香先輩は近づいてくるとダイニングテーブルの上に、ビニール袋から取り出したものを並べ始めた。
 陸の家で陸として生活しろっていうことかなとノインは思った。
「ごめんね。あんまり時間がないの」
 香先輩が急かすように言う。
「行く道で必要なものを買っていってくれって言われたんだけど、着る物とか、たぶん陸くんの家にはないだろうからって」
 続けた言葉も忙しそうだった。
「あ、はい」
 返事をすると、ノインはダイニングテーブルに座った。仕事中なのだろうと思う。香先輩が封を開けてくれたものを手に取り、ノインは口に入れた。パンがぱ さぱさしていた。味もなんか水っぽい。自分が得られていた環境の良さというのは失った時に初めて知るのだ分かった。ノインはいつもしていた食事が恋しく思 えた。

 香先輩の運転する車に乗り、途中で大きな店により着替えや洗面道具を買うと陸の家に向かった。
「忙しいのですか?」
 車の中でノインは聞いてみた。話す速さも歩く速度もしぐさまでもが何か忙しかった。
「大きな案件が入ってきてね。最近っていうか、義務は放り出すくせに権利ばかり主張する人が多いのよね。学生は学校で勉強してろって。そうなればもっと世 の中平和になるのに」
「勉強しないで何してるの?」
 それはすごく単純な疑問だった。
「酒、たばこ、女、ゲーム、ギャンブルっていうのが一般的だけど、そのために必要なお金を人様からまきあげるっていうね。一人じゃ何もできないから集団に なって。まったく。」
 香先輩の声から怒りがにじみ出ていた。
「お金をなくせばいいのに」
 ぽろっと言葉がでた。
 それは自分の世界の話だった。
「どうするの?」
 香先輩が話しにのってくる。
「決済を生体認証で使えるカードのすればいい。他人からとりあげたところで本人しか使えない」
「……それはとても良い案かもしれないけど、でも、そうね、遠い未来にはそうなるかもしれないわね」
 まるで他人事のように香先輩は言った。
 それが行われている世界のことは言わなかった。信じてくれるわけはないだろうし、信じてもらったら話が面倒にもなりそうだ。
 ほどなくして車は止まり、車を降りた香先輩の後に付いていった。高いマンションをエレベータで上がり、玄関の呼び鈴を押すと陸の母らしい人が出てきた。 香先輩が「柏から連絡がきてると思うのですが」と言うと、陸の母は「お世話かけてすみません」と深々と頭を下げていた。お茶でもどうぞと勧められていたけ れど、仕事があるのでと香先輩はすぐに引き戻していった。
 で、ノインはどうしたらいいのか分からずに突っ立っていると、
「何してるの? 早く靴を脱いであがってらっしゃい。ここを出たとは言ってもあなたの家に変わりはないんだから」
 そう言うと、陸の母はオデコに手を当ててきた。
「熱はないのね」
 確認してくる。風邪を引いたわけじゃない。ノインは小さく頷いた。
「医者に行った方がいいのかしら。痛むの?」
 聞いてきたので、ノインは首を横に振った。
「でも、傷は見てもらった方がいいわよね」
 独り言のように言うと、
「これからどうする? 寝てる? 一応ベッドは整えておいたわ。部屋が物置みたいになってるのは承知してね。帰ってくるとは思わなかったんだもの。それと も、何か食べる? 昼まで待てる?」
 質問攻めに、「少し寝てもいいですか?」とノインは聞いた。一人になりたかった。
 仰々しくなっちゃってと笑われたけれど、お昼ご飯ができたら呼ぶわねというと、陸の母は家の奥の方へ歩いていった。
 陸、ということで通ったらしい。かと言って初めてお邪魔する家の陸の部屋はわからない。とりあえず、靴を脱いであがると、玄関脇のドアを覗いた。ピンク のベッドカバーがかかっていたことで、ここは陸の部屋ではないと判断した。次の部屋はダンボールがいっぱい積まれていた。物置みたいというキーワードにあ う気がして、中に入ると箱に隠れてベッドがあって、布団が整えられていた。
 ベッドに腰を降ろすと、ノインは溜息をついた。せまっ苦しい部屋だなと思う。
 少しづつ自分は何かを失っていくようだとノインは思った。

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