二人きりになって、ノインは少し気持ちにゆとりができた。
「とりあえず、座ろう」
香先輩がいつ帰ってくるかは分からない。すぐに戻るような言い方だった。けれど、足音で分かるだろう。
長い黒いソファがテーブルを挟んで二つ向かい合っていた。そのソファに向かいあうようにノインとデールは座った。その方が話しやすい。
「で、どういうことなんだ」
せっつくようにデールが身を乗り出して言う。
「陸に会わせてくれるそうだよ。用事があるので終わるまで待っていて欲しいっていうことだった。デールに似た彼は大輔と言って、彼は僕達のことを陸から聞
いて知っているとも言っていた」
「陸に?」
デールの目が見開かれる。
そのデールの様子を見て、ノインは不安になった。陸に会ったら、またデールを取られてしまうかもしれない。先に陸を帰し、その後で自分達もこちらの世界
へこようなんていうのは、陸に会うことを望んでいたのかもしれないと、ふと思う。
「陸に会ってどうするんだ」
デールが非難するような目線を投げてくる。
その反応に、ノインは言葉がでなかった。会うのが嬉しいわけじゃない。むしろ、嫌がっているようにも見えた。
「お前はどこまで思い出したんだ? 陸に何をしようとしたのか覚えているのか?」
今度は、優しく問う。
「しようとしたって? 何を」
記憶に空白はある。完全に思い出したとは言えない。ただ、デールの言葉の指したことはわかっているような気がする。しかし、その時と今では状況が違いす
ぎる。
「……陸と入れ替わろうとしていただろ? 」
少し躊躇うように、声を落としてデールは言った。誰かに聞かれて困ることはない。何を話しているのか分かる人はここにはいない。それでも、声を落とした
のは、よほど後ろめたいことだと思ったのだろう。
ノインは喉をごくりと鳴らした。
この世界で生きていかなければならないのなら、入れ替わるのが手っ取り早い。ただ、準備が足りない。自分はなんとかなっても、デールはこちらの言葉すら
分からない。
「状況が違うよ。でも、ここも人工的な世界だから、システムの中に入り込まないと生きてはいけない。その隙間を捜す間、誰かに頼らざるを得ない。陸なら、
きっと助けてくれるよ」
デールを宥めるために発した言葉ではあったけれど、事実そうなのだろうとノインは思った。
「陸はいい子だから助けてくれるだろう。お前の言うことも分かる。だけど」
デールがすぐに反応する。デールの言い方が気に入らなかったけれど、ノインは黙っていた。今、言い合いをしても仕方ない。
「だけど?」
気になったところはスルーして、先の言葉を促した。
「陸にした事を考えると、簡単に頼るなんてことはできないよ。陸は――」
「陸に何をしたって言うのさ。陸はそれで何かを失った? 陸には与えこそすれ奪ったものなんてない。奪われたのは僕の方だ」
ノインはデールを見た。
考えもしなかったことだった。デールが優しいのは自分にだけではなかった。いつも二人きりだったから、デールが他人に対してどういう態度を取るのかなん
て知らなかった。自分にだけ優しくて、自分のことだけ思ってくれていると思ったのは大きな間違いだった。
「陸が何を奪ったって言うんだ」
まっすぐにデールが見つめてくる。まるで、何も分かっていないかのように。いや、何も分かっていないのだろう。どれだけ不安な気持ちになったか。どれだ
けの絶望を感じたのか。一人ぼっちになる恐怖など外界に自由に出られる人にはきっと分からない。
「物じゃない。見えないから分からないものだよ」
「ならば、陸から奪ってないとも言い切れないないだろ?」
まるで自分のことのようにデールが反論する。
「そうだね」
ノインはあっさりと折れた。
「でも、僕は陸の手を借りるしかないと思う。それとも、何か案がある?」
陸に会わないで済むのなら、むしろその方がいいような気がした。デールが体を起すと口を引き結んだ。そう、他に案などない。いや、ないことはない。けれ
ど、それは、まったく関係ない人を傷つけ奪うことだ。そんな方法を良しとするわけがなかった。
デールは優しい。それは、誰にでもだ。
軽やかな足音が聞えてきて、ノインは口元に人差し指をたてた。デールが話せないことは知られない方がいい。
テーブルの上に置かれた円形の長細い器から湯気が立ち上っていた。
「出前を頼んできたから食事はもう少し待ってね」
香先輩が笑いかけてくる。そして、近くの机から椅子を引き抜きそこに座った。
「ありがとうございます」
ノインは一応礼を言った。見ず知らずの人に優しくしてもらうのは変な感覚だった。
「本当に陸くんじゃないの?」
じっと見つめながら香先輩が言う。そうか、とノインは思った。自分には見ず知らずでも彼女にとっては知り合いに見えるのだ。ノインは答えを躊躇った。
「大輔と二人でいるところを見ちゃったら、彼は大輔じゃないんだと理解するしかないけど……」
続けた香先輩の声は不満げだった。
ノインも最初に陸を見た時は驚いた。そして、それはある考えへと形を変えた。それまでの鬱屈した気持ちが一気に解放された。自由になれると歓喜した。しか
し、夢を見たのはほんの僅かな時間だった。それでも望みは捨てなかった。この世界にいるはずのデールを陸に捜してもらえばいい。けれど、デールはその計画
に賛同はしてくれなかった。デールが自分の言うことなら何でも聞いてくれると思ったのは間違いだった。優しいデールのその優しさは自分へだけのものではな
かった。
「私にはあなたは陸くんにしか見えないわ」
溜息混じりに香先輩が言う。
それでもかまいません――ノインは心の中で呟いた。
今迂闊なことを言っては後で困ることになるかもしれない。出してしまった言葉は戻らない。ごまかしたところで残るのは不信感だろう。積極的にそんなもの
を作る必要はない。これからはこの世界で生きて行かなければならないのだから。
「そうだ。別の部屋へ移動するように言われてたんだっけ」
独り言のように言うと、香先輩は席を立って部屋の奥へと行った。大輔の机の後ろの棚の上のあるボードを見ながら、首をかしげ、そしてボードにくくられてい
るマーカーで何かを書いていた。すると、廊下から足音が聞えてきた。さっき部屋を出て行った大輔の足音にノインは聞えた。用事が済んだら陸に会わせてくれ
ると彼は言っていた。香先輩が離れているうちにデールに伝えようとデールを見ると、デールの姿が波のように揺らいだ。
「デール?」
何かの錯覚か、それとも怪我の影響かとノインは思った。それなりの出血はあったはずだから、もしかすると揺れているのは自分の方かもしれない。
でも、それは違うと次の瞬間分かった。
「ノイン?」
怪訝そうな顔をしてそう言ったデールの姿が真っ黒の影になり、そして次の瞬間跡形もなく消えた。
ノインは茫然と、今までデールが座っていたところを見つめた。こんなことがあるわけがない。いや、できないことではない。自分達が
使った装置はそのまま動作可能の状態ではあったはずだ。操作の方法さえ分かれば簡単なことだ。
「部屋を移動しましょ」
背を向けていた香先輩がくるっとこちらを向いた。
「あら、大輔に似た人は?」
不思議そうな顔をして香先輩が近づいてくる。消えたところを見られなかったのは幸いかもしれない。けれど、なぜ自分じゃないのだろうとノインは思った。装
置の中に入ってるデータは自分のものだけだ。もし、装置を使ったことに気づき、連れ戻そうと思ったならば、そのターゲットはまず自分になるはずだと思う。
デールだけを連れ戻すのはおかしい、なんらかの事情で順番が逆になったとしたら、安全を確認するためにデールでテストしたとも考えられる。そうならば、次
は自分だとノインは思った。隠れることなんてできない。隠れられる場所はない。
「どこへ行ったの?」
脇に立って怪訝そうな顔を聞いてくる香先輩にノインは答えられなかった。次の瞬間自分も消えてしまうかもしれない。
「あ、あの……」
ただ、推測できるだけで実際どこへ行ってしまったのか分からないのが現状だ。操作は間違えていないのだろうか。ちゃんと帰ることはできたのだろうか。確
認する術もない。
廊下の足音が突然止まりドアが開いて、入ってきたのは大輔だった。
「あ……」
香先輩が非常にまずそうな顔をした。
「彼、どこへ行っちゃったのよ」
腰を落とし耳元に囁いてくる。彼女にとって頼むと言われていた者がいなくなっては困るのだろう。
大輔もこちらへとやってきた。
「まだここにいたのか。会議が延期になった。彼らを家に連れていくよ。その方がいいだろう。デールは?」
大輔もデールがいないことに気づいたらしい。
「あ、あの……」
しどろもどろに答える香先輩はまるで、自分の言葉を鸚鵡返しにしたみたいだとノインは思った。
「まあ、いい。香ありがとう。助かったよ。後は仕事に戻ってくれ」
「あ、はい。では、パトロールに戻ります」
ぴっと立って礼をすると、さっき何かを書いていたボードを消して、香先輩はさっさと部屋を出ていった。
しばらく、大輔は香先輩が出ていったドアを見ていた。
「デールはどうしたんだ?」
足音が遠ざかっていくのを確認して大輔が聞いてくる。
「突然消えたんだ」
大輔になら全てを話しても大丈夫だとノインは思った。
「それは、どういうことだ?」
「分からないけれど、連れ戻されたと考えるのが一番確率が高いと思う」
目の前で鮮やかに消えたのだ。それ以外は考えにくい。
「デールだけ?」
大輔が言う。ノインもそれは不思議だった。
「次は僕の番かもしれない」
あの世界にとって大事なのは、自分が確保されていることのはずだ。デールよりもまず連れ戻す必要があるのは自分だとノインは思った。それがいつかも分か
らなければ逃れる術もない。
「あ」
ノインはひとつのことを思い出した。
「どうした?」
「陸と僕の区別はつかないはずだ」
装置で認識するのは生体データなのだから、同じものは区別できない。
「陸と?」
驚いた顔をした大輔は、ポケットから四角いものを出すと、それを操作し始めた。ノインは公園で同じものを見ていた。
「それは何?」
大輔に聞いた。
「携帯だ」
「携帯?」
「陸と連絡をとってみる」
大輔はそう言って、携帯を耳に当てた。