道に止まっている車まで歩く途中に、先ほど別れたもう一人の女の人が近づいてきた。近づく ごとに怪訝そうな顔がパワーアップしてくる。
「香先輩、どういうことですか?」
 ひそひそと囁くように口元に手を当てて言っていたが、はっきりとその声は聞えた。
「それが分かれば苦労しないわ。はっきりしてることは、とにかく、今は大輔が使い物にならないことだけ」
「え、まさか、彼が例の少年?」
「そう。一人は学生っぽいって言うから来てみて正解だったわね」
「そうですね。じゃあ、一旦署に戻ります?」
「私は連れて帰らないといけないみたいだからそうするけど、あと、二、三箇所回ったら、休憩にしてもいいけど?」
「ホントですか?」
「午後の報告までには戻ってきて。それまでにこっちが解決してるといいけど」
「わっかりました!」
 数回のやり取りの後元気に返事すると、彼女はデールに向かって礼をして広場を飛び出して行った。
「まったく調子いいんだから」
 香先輩と呼ばれた彼女は小さく溜息をついていた。

 ノインは不思議だった。まだ記憶が戻ってないからかもしれないが、陸とひどく親しそうな大輔と香先輩に関する情報がまったくない。デールに対する人が見 つからなかったはずだ。だけど、ここでは存在しているらしい。
 香先輩に促されるまま車に乗り込むと、人工的な甘い匂いがしてノインは少しむせてしまった。
「大丈夫?」
 驚いたように運転席から香先輩が振り向く。
「大丈夫です」
 そう答えるしかなかった。
  大丈夫か? そう耳元で囁きながら、デールが背中をさすってくれた。頷いて、デールは大丈夫なんだろうかと思う。自分が居た部屋ではこんな匂いをかいだこ と はない。というか、匂いといえば、肌を密着させた時のデールの匂いとかケーキの甘い匂い、肉の香ばしい匂いとか、不快な匂いと出合った記憶がない。

 今まで静かだった車が突然唸りだし動き出す。埃っぽさから解放されたと思ったら、今度は音に悩まされないといけないらしい。自分が居たところがどれほど 恵まれていたのか、それを知ったのは戻る手段がなくなってからだった。

 車内での会話は無かった。デールは俯き加減に何かを考えているようだったけれど、それを聞くことはできなかった。話す言葉が違うことを知られたくない。 デールもそのこと察しているのか、声をあげない。
 今までいた世界とそれほど違う町並みではない。建物があり樹木があり道があり車が走り人が歩いている。こんな町があってもいいだろうと思う。けれど、何 か正体の分からない違和感をノインは感じていた。
 どのくらいの時間走っていたのか。車は低いフェンスで囲まれた中に吸い込まれていき、白く引かれた線の中に止まった。車が発する音が消え、静寂が訪れ た。
「着いたわよ」
  香先輩が後ろを向く。どうしたらいいのか分からず、ノインは視線を伏せた。着いたと言われてもここがどういうところか分からない。車を降りてどうしたらい いのか分からない。陸に会うためにはどうしたらいいのだろうと思っていた。そうなると、最初陸を装ったことが失敗だったかもしれないと思う。実は自分は陸 ではなくて、陸に会いたいと言ってみようかと思い、ノインが顔を上げたら、香先輩が盛大な溜息をついた。
「もう、まったくー、記憶喪失にでもなったような顔しないでよ。仕方ないなあ。報告はしなきゃいけないから、一緒に行くわ」
 前を向きなおすと香先輩はドアを開け車外に出て行った。
「彼女に付いて行こう。デール」
 ノインはデールに分かるように言った。
「お前はここの言葉が分かるのか? 記憶はあるのか? いったい彼女は何て言っていたんだ?」
 デールが怪訝そうな顔で聞いてくる。
「今のところ不自由はしてないよ。ただ、今は話をしている時間はないみたいだ」
 入口の方へ歩いていった香先輩は振り向くと、顔をしかめて戻ってくる。
 ノインはドアを開けて外へ出た。また、湿っぽく埃っぽい空気が体を包み込む。早く建物の中へ入りたかった。

 入った建物の中はひんやりしていた。まだ昼だと思うのに薄暗い。その中を香先輩の後をついて行った。階段をあがると、廊下の窓から光が入ってきていた。 階段に程近い一つの部屋の前で香先輩は立ち止まった。扉を叩くと、「どうぞ」という声がした。
「あれ?」
 香先輩が首を傾げた。そして、デールを見たけれど、諦めたような顔をしてノブを回してドアを引く。「入って」と香先輩に言われたので、促されるまま、ノ インは部屋の中へ入った。いくつのも机の上に、本や書類の束のようなものが重ねられていた。
 少し離れた大きな机に向かって座っていた人がこちらを見ると急に立ち上がり、「陸、どうしたんだ!」と叫んだ。叫び声にも驚いたけれど、その前に、その 姿に驚いた。
 まるで、デールだと思った。
「え?」
 声をあげて、部屋を覗いてきた香先輩は少し口を開け、何が起こったのか分からないような顔をしていた。
「どうしたんだ、陸! 何があったんだ、香!」
 デールに酷く似た人が近づいてくる。
「あ……」
 一声あげた香先輩は言葉にならないようだった。今の状況をどう理解していいのか分からないようだった。
「陸」
 デールに似た人が優しい声をかけてきて肩に手を置いてくる。
「何があったんだ」
 聞かれる言葉は同じだ。どう答えたらいいのか迷っていると、
「とりあえずこっちに来て座れ、大丈夫なのか」
 背中に手を回して、誘導してくる。
「あ、あの……」
 香先輩はどう言ったらいいのか考えあぐねているようだった。外にデールがいる。
「なんだ。言いたいことがあるんだったら、はっきり言え」
 少し声に苛立ちが混じってきていた。
 香先輩はドアを大きくあけると、デールの腕を取り部屋の中へ引っ張り込んだ。見せる方が早いと判断したのだろう。
 肩に置かれてる手の力が抜けたようにノインは感じた。
「陸じゃない? 」
 呟くように耳元で言われて、ノインはぴくっと震えた。
「まさか、ノインか? 」
 ずばり名前を呼ばれて、ノインが思わず顔をあげると、デールに似ている瞳と目があった。

「陸から聞いたの? 」
 思ったことがそのまま言葉にでていた。それ以外考えられなかった。
「ああ」
 短く答えるデールに似た顔は困惑の色を滲ませる。歓迎しているようには見えなかった。
「大輔、どういうこと? 」
 香先輩が声をあげる。この中で状況を理解していないのは彼女一人のようだった。
「陸の……大切な友人達だ」
 躊躇うように大輔は言った。
「友人達? 陸くんでもないの? 」
 香先輩はびっくりした顔で見てくる。
「ああ、そっくりだよな。俺も会うのは初めてだ」
「ごめんなさい。混乱させちゃうかと思って、言えなかったんだ」
 香先輩に向かってノインは頭を下げた。騙すつもりだったなんて思わせたくはなかった。親切そうな人だと思う。敵にはまわさない方がいい。
「ああ、だから、どう説明していいか分からないって言ったのね。陸くんのよく言う台詞と同じなんだもの。てっきり本人だと思ったわ。いえ、本人じゃないっ て言われても信用しなかったかもしれない。こう二人揃っちゃうとどっちかは別人なんだろうって思うけど」
 香先輩はデールと大輔を見比べるように見た。着ているものを替えたらきっと分からないだろう。
「でも、ここまで似ている人なんて見たの初めてだわ」
 香先輩はまだぶつぶつ言っていた。
 大輔が腕にはめているものに視線を落とした。
「ここに連れてこられた経緯は、後で香に聞けばいいが、陸に連絡を取るにも今は学校に行ってる。俺はこれから席をはずさなければいけない。何か急ぎの予定 はあるのか?」
 聞かれてノインは首を振った。何かあるとすれば陸に会いたい。それには大輔に付いていた方がいいだろうと思う。
「じゃあ、ここでしばらく待っていてくれないか。香、昼はまだなんだろう。二人に用意してやってくれないか。香の分も俺に付けておいていい。静かな部屋が 用意できるなら、そっちに通してくれ。そのうちここも忙しくなるだろう」
「あ、はい。分かりました」
 急に香先輩の姿勢が変わった。状況が分かっていつもの調子に戻った感じだった。
「ノイン、訳ありなんだろうが、後で時間を作るから、今は少し待っていてくれ。困ったことがあれば、香に言ってくれればいい。香、頼んだぞ」
「あ、はい」
 香先輩が返事をすると、今まで忘れていたような肩に置かれていた手が離れて、大輔は机に戻ると、ファイルをひとつ持ち、「じゃあ、行ってくる」と言うと 部屋を出て行った。
 かつかつと歩く音が廊下から聞えてくる。
「びっくりしたわー」
 香先輩がそう言うと溜息をついた。
「ごめんなさい。驚かせて」
 彼女のお陰ですぐに陸に会えそうだ。あまりにもスムーズすぎて、怖いくらいだと思う。自然の中で静かな生活をデールは考えていたらしいけれど、そうはい かないらしい。
「あなたが悪いんじゃないわ。似て生まれたくて生まれてきたわけじゃないし、でも、まあ、二人揃ってっていうのもすごいわね。まあ、とりあえず、椅子に 座って。お昼は何が食べたい? 」
 突然聞かれても困った。どんなものがあるのか分からない。
「なんでもいいです」
「彼は? 」
 デールを示す。
「彼も」
「彼は、ホント無口ね。声すらださないもの。あ、もしかして、話せないとか?いえ、無理に聞こうっていうわけじゃないんだけど」
 香先輩はよくしゃべる。
「そういうわけじゃないんですけど、今は、ちょっと色々あって」
「そう。とりあえず、お茶でも入れてくるわ。待っててね」
 にこっと笑うと、香先輩も部屋を出て行った。
 とんとんと、こちらはかろやかな音が聞こえてきた。
「どうなってるんだ」
 デールが口を開く。ずっと聞きたいことだっただろうとノインは思った。

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