「とりあえず、座ろうか」
 辺りを見回したデールが言う。この地に来て、始めてしたことは、空いているベンチに座ることだった。ベンチに腰掛けて一息ついて、「大丈夫か、ノイン」 とデールが声をかけてくる。
 いったい何について大丈夫かと聞いているのだろうとノインは思った。
 体のことだろうか。ならば、特に異常はない。息もできるし、痛いところは無かった。今置かれている状況に関してなら、大丈夫かどうかは分からない。大丈 夫とはいったいどういうことを指すのかが分からない。
 けれど、この空気をいつまでも吸っていたくないとは思った。ほこりっぽい。苦い味までするような気がする。だからと言って、息を止めるわけにはいかな い。
 少しづつ、少しづつ、頭の中のもやもやが溶けていく。
 ここは、陸が住んでいた世界だ。そして、陸と入れ替わり来たいと思っていた世界だった。デールに対するはずの人が陸の記憶には存在しなかった。だから実 行できなかった。一人だけ自由になっても仕方ない。
 陸と入れ替わりに来たかったのだ。そうすれば生きていくために困ることはない。違うシステムで動いている世界に突然飛び込んでも、生きていくことは難し くなる。
 ここはどこなのだろう、とノインは思った、機械は全てデールが操作した。デールには地理的感覚がないはずだ。やはり止めるべきだったと今更思っても後の 祭りだ。戻る手段はない。
「大丈夫か、ノイン」
 それしか言葉を知らないのかのようにデールが言う。頷くと、デールはほっとした顔をした。

 しばらく無言でいた。
  デールの理由は分からないが、ノインとしては口を開きたくなかったのだ。埃っぽい空気が嫌でも口の中に入ってくる。ベンチの後ろに申し訳程度の芝生があ り、低木がいくつか立っているけれど、その向こうの低いフェンスの向こうには、絶え間なく車が走っているし、建物は高さが違えど、白く四角く固められてい るものが並んでいる。足元は土みたいだけれど酷く固い。まるで全てが人工で作られているもののように思えた。
 ただ、このまま座っていても仕方ない。何も変わらない。
「これから、どうする?」
 ノインはデールを見た。来てしまったのだ。生きていかなければいけない。
 デールは何も言わず、ズボンのポケットから何かを出した。楕円状のものは折りたたまれた万能ナイフだった。デールが刃先をはねあげる。鋭い刃先が光って いた。
  もし山が近ければ、獣を狩るとか野草や木の実を摘むこともできるだろう。川があれば、魚を取り藻を取ることもできる。太陽の光で火をおこすこともできる だろう。何か物さえあれば違うものと交換ができるかもしれない。初めから上手くはいかないまでも、自然の中でならば生きていくことはできるだろう。
 けれど、ここから見えるのは白い建物ばかりだった。山や森はおろか、太陽さえ見えない。こんな世界をデールは想像すらしなかっただろう。
 ノインの視界の端で、今までボールを抱えて体を丸めていた子供が立ち上がった。そして、また母親らしい人に必死に何かを告げていた。今度は聞いてもらえ るのだろうかと思っていると、先ほどとは違って、母親は子供に耳を傾け、こちらを見てきた。
 見られて困ることなど無かった。その瞬間を見たわけではないなら、突然人が現われたなど信じられることではないだろう。
 なのに。集まっていた母親らしき人たちは互いに見あい何かを話している。そのうち、耳に何かをあてて話している人がいた。それは、どこか離れた遠くへ繋 がっているようだ。
 どこへ連絡しているのか。連れ戻してくれるのなら、それでも良かった。ここへ来るための準備が足りなすぎる。
  デールはただナイフを見つめていた。これで何ができるだろうと考えているようだった。デールがだす答えをノインは待とうと思った。急かされることなど何も ない。ノインは空を見上げた。白い雲がゆっくりと流れていく。空の色は青いものだと思っていた。それ以外の空の色など考えられなかった。雲が空を覆ってい るわけではない。雲は流れているのだから。まるで、全体を覆うように薄い膜がかかっているようだ。今まで自分達が居た世界からは思いもよらない世界なのか もしれない と思う。どうやって生きていけばいいのか、それをデールだけにおわせるつもりはなかった。ただ、頭の中も薄い膜に覆われているようで考えがまとまらない。 記憶も途切れ途切れだ。時間はある。ゆっくりと思い出していけばいい。何から思い出せばいいのだろうと思う。これからのことについて何の手立てもないの に、なぜか焦りはない。どうしてなんだろうと思って、そうかと思った。ここでは、与えられた仕事はない。デールを連れていってしまう人はいない。デールが 傍に居てく れると言うなら、傍に居てくれるのだ。一人で置いていかれることはない。もう寂しい思いをすることはない。帰る家もないのだから、ずっと二人でいられる。
 でも、そのためには寝るところを調達しないといけないなと思った。今までいた世界では、住むところは決められた範囲の中で、それは自由に決めることがで きた。ここではどうなのだろうと思う。
  結局のところ、ベンチに座っていただけでは何も分からない。ただ、無闇に動いても仕方ないとは思ったけれど、座っていても時間がただ流れていくだけだ。見 えない太陽に照らされている時間も限りがあるだろう。 暗闇の閉ざされてしまったら動きにくくなる。デールに少し歩こうと言おうとした時だった。入口の前に小さな車が一台止まり、二人の女の人が広場の中に入っ てきた。一瞬で周りの様子が変わった。今までベンチで寝ていた人までもそっと体を起した。
 最初二人はは子供と母親の方へ行ったけれど、途中で一人が方向を変え近づいてくる。
「大輔、何やってるのよ!」
 向かい合った途端、彼女は素っ頓狂な声をあげた。そして後ろを向き、「大丈夫だって連絡して」ともう一人に向かって言った。
「そんな物騒なものはしまってよ」と言いながら、彼女は顔を上げたデールからナイフを取り上げ、刃を折りたたむ。「なんで、こんなことになってるの? 今 朝は署に居たのに、なんで着替えてこんなところに。陸くんはどうしたの? 頭に包帯なんて。何かあったの?」
 彼女はまくし立てるけれど、可哀想にデールはきょとんとした顔をしていた。当たり前だ。言葉が分からないのだから。
 まるで親しい間柄のような態度で接してくる。ただ、素手でナイフを取り上げられるなんていうのは親しい間柄であっても躊躇することだと思う。
「大輔。あんたが陸くんのことになると使い物にならなくなるのは知ってるけど、何か言ったらどうなの? この近くをパトロールして良かったわ。他の署に捕 まったらいい恥さらしよ。こんなところで、刃物を振り回したらどうなるかは分かってるでしょ?」
 彼女を懲りずに続けるけれど、それは少し間違いだと思った。デールは振り回してはいない。見ていただけだ。予想と現実のあまりのギャップに戸惑っていた だけだ。
「ねえ、陸くん。何があったの?」
 デールに話しかけるのを諦めたらしい彼女が見てきた。けれど、そんなことを聞かれても困る。正直に話して信じてもらえるわけがない。けれど、彼女は陸を 知っているらしい。陸に会えれば、うまく入れ替わることができるかもしれないと思った。
「ねえ、陸くんまでだんまり?」
 彼女が困った顔をした。
「ごめんなさい。どう説明したらいいのか分からなくて」
 とりあえず、当たり障りのな返事をした。彼女がどういった人間なのかも分からない。思い出した記憶の中で彼女の存在はなかった。
「陸くんはいつもそれね。でも、信頼してる大輔は今、使い物になりそうにないわよ。まさか、やつらにやられたの? まだ根に持っていたやつがいるの? そ れで、大輔が復讐を考えてたってことはないわよね」
 すらすらと、彼女は訳が分からないことを言う。
「とりあえず、場所を変えましょう。陸くんは、包帯を巻いてるってことは治療が済んでるってことよね? 」
 彼女の問いにとりあえずノインは頷いた。デールはあいかわらずきょとんとしている。まったく状況が飲み込めていないのだろう。しかし、今は説明できな い。
「そういえば、大輔、今日は会議があるんじゃない。早く戻らなきゃ。行きましょ」
 彼女は入口近くに止めてある車を示す。
 ノインはほっとした。この埃っぽいところから脱出できるらしい。

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