異世界(ノインの場合)
淀んだねっとりした空気が体にまとわり付いてくる。太陽が見えない。白く濁った膜が空を
覆っているようだ。不快な音の洪水が耳の中で暴れまわっている。長い間望んだ地は、快適とは遥か遠いところだった。
「ノイン、大丈夫か?」
優しい恋人はひっきりなしに同じ言葉を投げてくる。その言葉はこの地の言葉ではない。
低いフェンスが張り巡らされた先には、絶えず車が往来している。砂が舞う広場の中央には、噴水がわきあがっていた。その広場を囲むようにベンチが並べられ
ている。寝ている人、本を読んでいる人、友人数人と談笑している人、ただぼおっと空を見上げている人、様々な様子を呈している。
「ノイン、大丈夫か?」
何度も問いかけてくる恋人、デールにノインはうなづき、「大丈夫だよ」と返した。
「そうか」
デールは一瞬安堵の表情を見せた後、険しい顔になる。
少し離れた砂場の端っこで小さな子供が一人ボールを抱えて座っている。何人かが砂場の中で遊んでいて、近くには母親らしい人たちが数人楽しそうに話をし
ている。
ちょうどこの地に着いた時、足に衝撃があった。何かがぶつかった気がした。それがボールだと気づいたのはすぐだった。そして、そのボールを追ってきたらし
い子供が少し離れたところで茫然としていた。ボールは子供の方へ跳ね返り、けれど、突然人が現われたことに驚いたらしい子供はそのボールを取ることができ
なかった。「あ」と小さな声をあげ、子供はボールを追っていった。その子はボールを拾うと母親らしい人に駆け寄り一生懸命何かを告げていたが、相手にされ
なかったらしい。今は、まるで、何かに脅えるように、ボールを抱えて体を丸めていた。
人目を避ける方法はあったと思う。けれど、その余裕はなかった。
少し前、それは、短い本を読み終わることすらできない少しの時間だ。
突然デールが言った。
「ノイン、お前が望んでいたところへ行こう」
「望んでいたところ?」
ノインはデールの言っていることが分からなかった。望んでいた? 頭の中で繰り返してみたけれど、答えを引っ張ってくることができなかった。
「そ
うだ。お前の言う通り、この世界では逃げられることはできないだろう。そして、お前がこの部屋を出ることになれば、もう二度と会うことはできないだろう。
お前がこれからどういう扱いを受けるのか心配なんだ。人を平気で実験材料にするようなやつらだ。安穏とした生活を送らせてくれるとは思わない。ならば、お
前の行き
たかったところへ行こう」
「それはどこ?」
ノインは聞いてみた。分からないのだから仕方ない。ただ、なんとなく嫌な予感がした。
「分からなくていい。ただ、俺はずっとお前を見守っていきたいだけなんだ。安心していい。陸だって大丈夫だったんだ。だから、大丈夫だ」
「ちょっと待って、デール」
待ってと言ったのに、デールはにっこり笑うとさっき操作していた機械に向かい、何かぶつぶつ言っていた。
デールと笑顔とは裏腹にノインの心臓の警戒信号は赤いランプを点灯させくるくる回っている。
(陸って?)
頭の引き出しを片っ端から開けていくけれど、どこもぼやけて形にならない。何が起ころうとしているのか推測さえできない。ただ、不安が広がっていくばか
りだった。とにかく時間が欲しいとノインは思った。
「デール、お腹がすいた!」
こんなことで時間稼ぎができるかわからなかったけれど、振り向いたデールは困った顔をした。
「時間が無いんだが」
そう言って首を傾げて、
「仕方ないな」
呟くように言うと膝を叩く。
「あまりゆっくりはできないぞ」
デールはそう言うと、部屋のドアを親指で差した。
食堂で食事を取りながらノインの頭の中では「陸」という言葉を追っていた。何を食べているのか、味はどうなのかを考えている余裕はなかった。ただでさえ、
頭の中がもやもやしてつかみところがない。けれど少しづつ、ほんの少しづつ形になって見え始めてきつつあった。あの部屋
にあったものは異次元移動するための実験装置だ。それも自分が作ったものらしい。あれをデールが弄っていたということは異次元へ行くということだろう。で
も、異次元ってどんなところなんだろうと思う。どんなとこ
ろだっけ? 思い出そうとしても、いらいらしてくるほど頭が働かなかった。
あまり時間稼ぎもできなくて、よく分からないままデールに急かされて実験室へ戻った。
時間が経ってくると不安も落ち着いてくる。デールがずっと見守ってくれるというなら、それでいいじゃないかという気もしてきた。デールが機械を弄ってい
るうちに、ふと、そういえばと思いだした。実験装置のアクセサリーで作っていたものがある。
「どこに入れたっけ」
デールの背中を見ながら、机の引き出しを開けていった。
「あ、これだ」
掌の収まる四角い小さなもので、小さな画面といくつかボタンがついている。
何をするものだったかまでは思い出せなかった。ただ、何かのために作ったのだ。きっと役に立つだろうと思った。
「行こう、ノイン」
準備が整ったらしいデールが手を出してくる。その手をノインは掴んだ。たとえ、これから行くところで二人きりであったとしても、デールを誰かに取られる心
配はない。そう頭の中で思いながら、あれっと思う。デールを誰かに取られそうになったことってあったっけ。デールに手を引かれ装置の上に立ち、デールが抱
き込んでくれて、心が一休みする。デールはいつだって自分のことを思ってくれてるはずだと思いながら、自分の顔が浮かんできて、でもそれは自分じゃないと
思った。
突然体が震えた。抱いてくれているデールの腕が強くなる。今デールの腕の中にいるのは自分なのに、その映像を自分が見ている場面がフラッシュバックす
る。
そうだった――暗闇の中でノインは陸の存在を思い出した。