薄いアイボリーの壁で囲まれた部屋の中には、大きな机がいくつかあって、その上には実験装 置らしいものが置いてあった り、本がうずたかく積まれていたり、書類が重ねて置いてあったり、ここから戻った時とまるで変わらず、まるでタイプスリップしてきたみたいだと陸は思っ た。
 実験装置に程近い机の脇に座っていたマキと角を挟むように置いてある椅子に陸は座った。

「ノインとデールが消えたんだ」
 唐突にマキは話しはじめた。世間話をするような仲ではない。陸にしても必要なことだけ聞ければ良かった。
 陸に驚きは無かった。デールは逃げると言っていた。それを実行したのだろう。陸の反応を見るでもなくマキは話を続けた。
「この建物を出た形跡はない。この部屋から忽然と消えた。一番疑わしいのはこの装置を使ったということだ」
「そうとは限らないだろ」
 陸は思わず声を出した。警戒網にかからず、うまく脱出できたということだろうと思う。陸の言葉にマキの反応はなかった。
「ノ イン以外にこの装置を使えるものはいない。実験中であることで、ノインは報告書を完成させていない。当然操作方法を記したものはない。そこで研究者の一人 に緊急で依頼を出した。装置の操作方法の分析しノインを呼び戻すことだ。それは、ものの数時間で終了し、生体データがノインと同じ君を召喚した」
「でも、どうするの? 僕はノインじゃない」
 陸は覚悟を決めて、自分の素性を明かした。危害を加えないと言った言葉を信じたことと、マキは陸だと信じているから今更偽ったところで仕方ないし、ノイ ンでないことはすぐにばれてしまうだろう。
「大事なのは生体データがノインであることだ。君でなくても別に構わない。あ、いや、言葉が通じることで、君であることは最高の結果だったよ」
 マキはまるで誰でもよかったかのように言う。形だけ整えば中身は問題にはしないと言っているようだった。
「でも、ノインを戻したとしてどうするつもりなの? ノインには利用価値は無くなったんでしょ? 脳を傷つけてしまったから、もうノインに研究成果を期待 できないんで しょ? なら、探し出すことないじゃないか」
 子供に戻ってしまったようなノインを陸は思い出した。静かに二人でいさせてあげたいと思う。それは感傷かもしれないけれど、必要もないのに邪魔をするこ とはない。
「誰がそんなことを言ったんだ?」
 マキが目を細める。
 まずい事を言ってしまったのだろうかと、陸は口を噤んだ。
「まあ、デールしかいないか。しかし、脳を傷つけたかどうかなんて分からない」
「だけど、出血の量は酷かったし、治療も最低限しかしてないって、あ……」
 思わず口に出して、しまったと思った。知らなくていいことを知ってしまったら消されるなんていうのはフィクションの世界だけど、ここはそれに酷く近いよ うな気がした。
「間 違ってはいない。傷を縫い合わせて止血しただけだ。ノインの頭を開けるなんてことはできないよ。もし、傷つけてしまったら大変なことだ。責任を取れるやつ なんかいない。だから、必要最小限しかしなかっただけだ。人には治癒能力がある。致命的なダメージを受けていなければ、初めはショックで混濁した意識や 眠った知識も休むことで回復する。回復しない可能性もある。それはどちらにせよ、可能性だ」
「じゃあ、ノインは?」
 回復する可能性はあったということになる。
「どちらでもかまわないよ。これからは、君がノインだ」
「そんなこと言われたって困るよ。僕にはノインほどの才能なんてない」
 だから早く返してくれと付け加えたかったけれど、それはやめておいた。素直に返してもらえるとは限らない。それより隙を見て自分で帰った方がいい。装置 はそこにあるのだ。操作方法は簡単だと、操作していただろうやつは言っていた。
 ふっ、とマキが笑った。
「ノインの才能は認めよう。けれど、ノインにとって大切なのは、びっくりするような発明をすることじゃない。中央の指令にしたがって管理されていることが 大事なんだ。分かるか?」
「どういうこと?」
 聞いた話とはだいぶ違っている。
 発明をするために、整った実験室で隔離されているはずだった。 
「才能は武器だ。敵に渡ってしまったら怖いものだろ? だから、監禁するんだ。設備の整った実験室なんて見せかけだよ。ノインに課せられた事は中央に逆ら うことなく監禁されていることだ。ノインが外に出ることを怖がっているということは聞いたことはないか?」
「あ、そういえば……」
 デールがそんなことを言っていたような気がした。
「この国では5歳になると、誰もが適正検査を受ける。誰もが、だ。そして、そこでふるいにかけられる。選ばれた者は家族と離され監禁される。そして、その 他の者はワクチンを受ける。病気の予防をうたっているが、主な目的は個人を特定するカプセルを注入することだ」
「カプセル……?」
「そうだ。見には見えない極小さなカプセルだ。そのカプセルを認識する物がある。通常サーブと呼ばれている。サーブで認識したデータを照会すればどこの誰 かが分かるようになっている」
「どうしてノインは受けないの? 病気の予防ならノインみたいな人にも必要なはずだし、受けない理由はないんじゃないの?」
 疑問が次々とでてくる。
 体内にカプセルを入れるなんてどうかと思うけれど、それではノインたちは識別されないことになる。
「識 別できないということはすなわち、見つかった場合不法に入国した者として処刑される。その場でだ。どこでもという訳ではない。重要な地点、国境等決められ た範囲の警備をしている者だけがサーブを携帯している。けれど、重要な地点は広く知らされているわけではない。もし、迷いこんだ時には命はない」
「で、でも、ノインは重要な、だって、選ばれた人になるわけでしょう? なら、識別されないなんて困るんじゃないの」
 めちゃくちゃだと思う。何もしなくても、重要なところに近づいただけで命が危ないことになる。そして、それは自分も同じなのだと陸は思った。
「敵に渡れば最も危険な人物だ。不審な行動を起こすものには容赦はしない。そのことはノインたちには知らされている。大人しく監禁されているなら、限られ た範囲ではあるけれど、自由に困ることなく生きていられる」
「自由って言えるほど、広くないじゃん」
 限られたスペース。それは少し広い家くらいなものだ。
「それが選ばれるということだ。医療も受けなくていいように、空調も食事も気を配られている」
「なんで、医療も? もし、病気になったらどうなるの?」
「人間には治癒力があると言ったはずだ。それに病原菌が入らなければ病気になることはない。医療は早く病を治したい時には有効であるけれど、傷つけること もある」
「デールはどこまで知っているの?」
 なぜ、こんなにマキは詳しいのだろうと思う。仕事はデールと同じはずだ。けれど、デールの話とは著しく違っている。誘っても外へ出たがらないなんて当た り前だ。
「知るはずがないだろう。選ばれたエリートだから優れた環境で研究に専念できると思っているはずだ」
「じゃあ、なぜマキは知っているんだよ」
 素直な疑問だった。
「人より少し長生きしたせいかな」
「え?」
 それは、意外な答えだった。
 見た目はデールと変わらない。つまり、大輔とそう変わるとは思えなかった。
「不老不死っていう言葉が分かるか?」
「え、死なないし、老いないってことだよね?」
「私はその実験体だ」
「どれくらい生きているの?」
 半信半疑だった。不老不死という言葉は良く聞く。人魚の肉を食べるとなれるなんて伝説まであるけれど、夢のまた夢のような話だ。でも、この世界ならある のかもしれないと思った。
「900年、くらいかな」
「きゅうひゃく?」
 陸はマキを見つめると体が固まってしまった。それほど、マキの告白は衝撃的なことだった。

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