ノインと陸


異世界(陸の場合)


 窓から見える空は青かった。白くふわふわな雲がゆっくり泳いでいる。
 いつもと変わらない。いや、いつもより穏やかそうな空をみて、ひとつ溜息をつくと陸はテーブルに置いていた携帯に手を伸ばした。
 一緒に住んでいる大輔はだいぶ前に家を出た。勤務先は以前通っていた警察署だ。転勤するっていうから付いて行ったのに、大輔は一年早く戻ってくるように と通達がでた。
「だから待っていろと言っただろ」
 そう大輔は言ったけれど、待っていたら三年だ。同じ大学の大学院へ進む予定でいたけれど、陸も戻ることにした。三年生に編入すれば、離れなくても済むけ れど、一年だからと遠距離を選んだ。
 待っていろと言っただろ、と言った大輔への反抗でもあった。離れるっていうことがどんなことなのか、自分も知りたかったし大輔にも知って欲しかった。
 そして一年が経ち、また同居生活を始めた。そうして、もうすぐ一年になる。

「忘れ物はないはず」
 財布と定期いれはポケットに入っている。いつものバッグに携帯を持てばいいはずだった。携帯を掴んだ感触はあった。けれど、それが手の中ですっと消え た。
「え?」
 携帯を掴んだは ずの手はまるで空気を掴んだみたいに拳を握っていた。人はとんでもなく驚くと何もできなくなるらしい。握られた拳を陸はしばらく見つめていた。
「嘘だろ?」
 確かに携帯に触れた。
「待てよ」
  こんなことが前にもあった気がした。あの時は消しゴムだった。その時は何よりも必要なものでも店に行けば売ってるものだ。携帯は違う。そのメモリーの中に は陸の交友関係がぎっしり詰まっている。いちいちメモなんかしない。携帯がなくなったらどこへも連絡できなくなってしまう。
「まさか?」
 こんなことが起こる心当たりなんてひとつしかなかった。消しゴムの次は自分自身だった。
「あ、だって」
 そんなことが起こるはずがない。
 けれど、心臓の鼓動がどくどくと大きく脈打ちはじめる。
「いや、違うよ。きっと下に落としたんだ」
 自分に言い聞かせるように言うと、下に落ちたはずの携帯を拾おうと、床に視線を落とした瞬間だった。
 ぐらっと世界が揺れた。
「え、地震?」
  視界がゆっくりと歪んでいく。まるで望遠レンズで見ているみたいに。地震で揺れているなら歪む必要なんてない。床が波打ち、立っていられなくなって しゃがみこむと歪んでいた壁がガラスのようにパリンと割れて暗闇が訪れる。その中を無数の光が走っていた。この光景は見たことがあると陸は思った。
 なんでこんなことになってるんだろうと思う。
 今日だって、いつもと変わらない朝だった。
 目覚まし時計のスヌーズを三回切り、ぼんやりした頭で眠い目を擦りながらフライパンに卵を落とし、固まってしまう一歩手前で皿に移して、ハムとレタ スとトマトを添えてテーブルに持っていくと、大輔が焼いたトーストとコーヒーメーカからコーヒーをついでくれて、なんでもないことを話して笑って、時間に なったら大輔は職場に向かい、少しぼんやりして後片付けをして、そして学校へ行くはずだった。
 いつも何かが起こる時は突然だ。そして、助けてくれる人はいない。

「生体データは確かにノインだ。これで俺の仕事は終わりだな。中身はどうなっているのか分からんが、操作はいたって単純だ。なあ、マキお前にでもできそう だろ」
 聞いたことのない低い声が聞えてきた。
 足はちゃんと床を踏んでいるのに、体はまだ揺れているようだった。
「そうだな」
 答えた声には聞き覚えがあった。
「ただ、ターゲットが動く場合にはロックでもかけられるようにしないと、余計なものを抱え込むはめになるな。それが欠点といえば欠点か」
「分かった。ノインに伝えておこう」
「百も承知だろうよ。あいつは楽しんでたんじゃないか? 画面の中で泳いでいる何かわからないものを釣り上げる。いいおもちゃだ。さあ、俺達は行こう。 ジョイス」
「承知しました」
「じゃあ、上に連絡して戻るよ。後はよろしく」
「OK」
 言葉が頭の上を飛び交っていく。もう忘れかけていた。昔聞いた言語だった。

 ガタンと椅子がなる音を陸はしゃがんで体を丸めたまま聞いていた。嫌な予感が当ったらしい。でも、おかしい。やつらはノインと言った。

「いつまで丸まっているつもりなんだ」
 マキが言う。
 陸はゆっくりと顔をあげた。見覚えのある実験室がそこにはあった。
 目があったマキが少し顔を傾げた。
「ノインじゃなくて、陸だったみたいだな」
 マキはニヤッと笑った。

  たぶん、ノインとは双子以上に似てると思う。それをマキは区別できたらしい。どうしたらいいのか陸は分からなかった。陸だと名乗ったらおもちゃにされるか もしれない。さっき、知らない男が言ったように。かと言ってノインだと言って、無理な要求をされても困る。頭の出来は天と地ほど違う。

「何がどうなっているのか分からないという顔をしているね」
 マキが楽しそうに笑う。
「仕方ないから、説明してあげよう。こっちへこいよ。大丈夫だ。何も危害は加えない」
 マキが手招きをする。正直どこまで信じていいのか分からない。けれど、このままでは何も進まない。気が乗らないまま、陸は立ち上がると、ノインが勧める 椅子に腰をおろした。

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